殿と大地之助 1
時は江戸時代。
人々が多く集まる城下町には、華やかに着飾った娘達や、威勢良く掛け声をかけて各々の店の商品を売る商人達でごった返し、かなりの賑わいを見せている。
江戸城の主である今の殿様はお優しいと評判で、無理な圧制を庶民に強いることもなく、人々の暮らしは平和であった。
そんな城下町のはずれの一軒の家の前に、1人の少年が佇んでいた。
少年は家を無言で見つめている。
(父さん、母さん、大空衛門…)
心の中で家族に呼びかけ、悲しそうな瞳のまま背を向けて歩き出す。
少年の名前は大地之助。先月11歳の誕生日を迎えたばかりだ。
大きなクリクリとした瞳と、いたずらっ子のようなおでこが印象的で、あどけなさの残る頬と口元がとても可愛らしい。
だがどことなく悲しそうに見えるのは、一週間前に父親・母親・弟を水難事故で亡くして独りぼっちになってしまったからだった。
近所の者からうらやましがられるほどの仲良し家族で、もちろん大地之助は家族みんなが大好きだった。
けれど、久しぶりに全員で海に出かけたとき大空衛門が溺れてしまい、助けに行った父と母も水の猛威に襲われた。
大地之助は必死になって周りの大人たちと一緒に3人を助け出そうとしたが、その想いも空しく自分以外の家族全員が帰らぬ人となってしまった…。
その様子を鮮明に思い出し、大地之助は歩きながら拳を強く握り締めた。
もっと注意して大空衛門を見ていれば、もっと早く助けに向かっていれば…とこの一週間ずっと自分を責めていた言葉が頭の中を駆け巡った。
涙ぐんだ瞳を悔し紛れに手の甲で乱暴に拭って進んでいく。
まだ11歳の大地之助が独りぼっちになったということで、父親の兄が面倒見よう、と名乗り出てくれた。
だが大地之助は気が進まなかった。
実はその家には10人もの子供がいる。上は10歳、下はまだ生後3ヶ月の赤ちゃんで、かなりの大所帯だ。
おじさんは一生懸命働いているがどう見ても家族が食べていくのがやっとという状態で、大地之助がそこに入れば生活がもっと苦しくなるのが目に見えている。
おじさんやその奥さんは2人ともすごくいい人だったが、それゆえに大地之助は申し訳なくて仕方なかった。
それでもやはり他に行くところがない為、おじさん夫婦に頼る他術がなく、今日はこうして1人家族の思い出がある家を離れて、おじさん宅へ参っているのだった。
すると、大地之助の前に2人のお侍が現れた。
(あっ、気づかなかった)
慌てて大地之助は、他の通行人と同じように道の脇へよけ、頭を下げた。
侍の着ている羽織には、江戸城・徳代家の家紋が入っている。
(うわ〜、お城の人かー…初めて見た!)
感激して思わずじっと見てしまった大地之助は、侍の1人と目が合った。
大地之助はうやうやしく頭を下げて2人が通り過ぎるのを待っていると、目の前で足が止まった。
(え…)
戸惑う大地之助に、侍が声を掛けてきた。
「おもてを上げなさい」
言われたとおり、大地之助はおずおずと頭を上げた。
じっと見たことが気に障ったのだろうか。それでないとこんな風に城の人に話しかけられるはずがない。
見るからに不安そうな大地之助に、侍はふっと優しく笑った。
「お主、名はなんと申す?」
怒られると思っていた大地之助は、意外にも穏やかそうな2人に驚いたが、やはり不安感は拭い去れない。
「だ…大地之助と申します…」
自分の名前を尋ねる侍の目的が分からず、緊張しがちに答える大地之助に、侍は語りかけた。
「大地之助殿、いきなりで驚くかも知れぬが、城に来て殿に会ってみてはくれないか?」
「えっ?」
大地之助は目を見開いた。
この国で一番偉い人と自分が会う…?
こうやって城のお侍さんと会って話をするだけでも、庶民の自分にはものすごく恐れ多いことなのに、殿とお目文字するだなんて。
今までの自分の暮らしとはまるで別世界の話すぎて、大地之助は頭が混乱した。
侍は話を続ける。
「今、殿のお小姓を探しているのだ。お小姓とは、殿の身の回りのお世話全般をする男の童のことなのだが、なかなか殿のお気に召される者がいなくてな。
こうやって連日町へ下りて探しているんだ」
「そうなのですか…」
お小姓という存在は初めて知った。
(お城の中って色んな人がいるんだな…)
全く知らない世界に大地之助が思いを馳せていると、侍はニコニコと問いかけてきた。
「殿にお会いして返事を聞いてみないことには分からないが、お主はとても可愛らしいので殿のお好みに合うと思うんだ。
どうだい、今から我々と一緒に来てくれないか?」
大地之助は突然の話に即答しかねた。
いきなり城へ行って殿と会うなど、先程までの自分には思いもよらなかった話だ。
だが、もし殿様のお小姓になれれば、おじさんたちにいらぬ面倒をかけなくて済む。
どうしようか…と迷っていると、侍が言った。
「いきなり来いと言われても、君にもご両親がいるだろうから、先に相談して構わないと言われたら是非にもお願いしたい」
大地之助は、自分の境遇を話した。両親はもういないこと、おじさん夫婦の家に今から行くことを。
「そうか…。ではその親戚の人にお伺いを立てよう」
侍の言葉に従って、大地之助は2人と共におじさんの家へ向かった。
「おう、大地之助、待ってたぞ」
父親によく似ている人の良さそうな笑顔で、おじさんは出迎えてくれた。
後ろには赤ん坊を抱えて、奥さんが微笑んでいる。子供達はそれぞれ兄弟で仲良く遊んだり、ケンカしたりしている。
大地之助は軽く2人に会釈して、自分の後ろのお侍さんを紹介した。
「これはこれは江戸城の…!こんなむさ苦しいところへどうして…」
深々と頭を下げ、おじさんは慌てている。
侍は先程大地之助に話したことを夫婦に説明した。
「だっ…大地之助がお小姓になるかもしれないのですかっ!?」
パクパクと口を開け閉めして、おじさんは大地之助の顔を見つめている。
大地之助はその様子が少しおかしくて笑いそうになったが、そうなるのも仕方がないほど急な話なので、おじさんの気持ちが良く分かった。
「殿がお気にいればの話だが、我々は是非にと思っておる」
侍に言われて、夫婦は顔を見合わせた。
おじさんの奥さんが、大地之助を心配そうに見る。
「それで、大地之助はどうなの?お会いしてお殿様が良いといえば、お小姓の仕事をする気はあるの?」
「僕は…」
大地之助はまだ迷っていた。未知の世界に踏み出す勇気もいまいちなく、かといっておじさん達の重荷にはなりたくない。
答えあぐねている大地之助の目の前で、子供の1人が奥さんの着物の裾を引っ張った。
「かあちゃん、ごはんはー?」
「これ、八吉!」
奥さんの声に赤ん坊が驚いて泣き声を上げる。
「大事な話してるときに邪魔しないの!」
母親に追っ払われても、八吉は腹ペコを訴えた。
「だって、あんなちっちゃいお芋じゃすぐにお腹減っちゃうよー」
「もう、すぐに行くからあっち行ってなさいっ」
家庭内の困窮を見せる形になってしまって、おじさんは恥ずかしそうに侍に頭を下げた。
「すいません、お見苦しいところをお見せしてしまって…」
「いや、賑やかなのは良いことだ」
侍はむしろ楽しそうにその様子を見ている。
大地之助は今の八吉の言葉に心を決めた。
「僕、殿とお会いします」
「えっ!」
おじさんは思わず声を上げた。奥さんは八吉を家の中へ押し込めていたところを慌てて振り返る。
「大地之助、ウチが貧乏だからって気をまわさなくっていいのよ?あなた1人ぐらいなら、この人がもうひと頑張りすりゃあどうにかなるんだから」
ドンっと奥さんに背中を叩かれ、おじさんはむせながらうなずいた。
「そうだぞ、俺達のことは気にするな。お前はもううちの子なんだから…」
あくまで大地之助の気持ちを尊重して、語りかけてくれる2人のあたたかさに心から感謝しつつ、大地之助はニッコリと笑った。
「おじさん、おばさん、ありがとう。でも、前々からお城のことに興味あったんだ、僕。どうなるか分かんないけど、こんな機会めったにないんだもん。
行ってみるよ」
大地之助の言葉を聞いて、侍は大地之助の肩に手を掛けた。
「よし、決まりだな。早速城へ行こう」
「はい」
夫婦はそのまま3人の後ろ姿を見ていたが、おじさんが1人駆け寄って侍の袖をつかんだ。
「お侍さん、大地之助は私の弟、大樹衛門が残したたった1人の息子です。ですのでどうか、お殿様にはくれぐれも大事にして下さいますよう、
よろしくお伝え願いますっ…」
大地之助はそれを聞いて胸が熱くなった。
本当におじさん達は自分のことを大切に思ってくれている…。
侍はおじさんの言葉に深くうなずいた。
「うむ、伝えておく。殿は本当にお優しい方だ。大地之助殿がお小姓となり正式に城に迎えられたときには、そのようになさるだろう」
「ありがとうございます…!」
おじさんは深々と頭を下げ礼を言った。
しんみりとした雰囲気を和ますように、大地之助は茶目っ気たっぷりに笑った。
「へへ…こんなこと言ってるけど、すぐに帰ってきちゃったりして」
おじさんは目尻の涙を拭きながら、笑顔で返す。
「それならそれで、大歓迎だ!お前はもううちの子なんだから、胸張って帰ってきなさい!」
奥さんもクス…と笑い、大地之助は手を振りながら侍に伴われて城へ向かった。
