「…大地。いるか」
突然の呼び掛けに大地はドキリとした。襖の向こうからシャマンの声がする。
「ぅ、うん」
慌てて部屋の電気を点けてシャマンを迎え入れた。
シャマンはいつもと同じポーカーフェイスだったが、青白い顔色で元気がなく感じた。
回廊でのできごとがそうさせているのは間違いなかった。
シャマンがこうやって大地の部屋に入って来るのは初日以来だ。
きっとリオンに話していたように、デビュー前の見習いとは一度こうやって話をするのが彼の決めごとなのだろう。
あの頃よりもずっとずっとシャマンのことが好きになった。
と、そこまで考えて大地はハッとなった。
(あ、デビューするってことはオレ…シャマンさんと簡単に会えなくなるんだ)
いろんなことがありすぎてそこまでの考えに及んでいなかった。
いつも頼りにしていた、支えにしていたシャマンと離れてしまう。
いきなり大きな不安感が大地を襲った。
「…水揚げ相手のナブーは」
陰間デビューすることに急に実感を伴って動揺している大地に、シャマンが静かに話し出す。
「お前も気づいているように嗜虐的な男だ。子どもが泣けば泣くほど興奮して悦ぶ」
「……」
「だから、明日の床入りでは涙を見せるな。泣いたらあいつの思う壺だ。できる限り反応しないように努力しろ」
シャマンからアドバイスを受けている時、大地はずっとシャマンを見ていた。
しかしシャマンは大地の目を見ていなかった。
いつもきちんと相手を見つめて話しているのに。
大地はそこまで言って、どうしても続けられなかった。
『それはシャマンさんが陰間時代にナブーに対して心がけていたことなの?』
シャマンの口からはまだ陰間をしていた事実を伝えられていない今、そんなことを聞くのはあまりにもデリカシーに欠ける。
大地は黙り込んでしまった。
「……」
シャマンも、大地が何に気づいて何を聞きたいのかわかっていた。
突然現れた中村の旧知のヤクザ者。
自らの欲望のためには他人を顧みない見るからに凶悪な男にまだ準備が整わない身を明日捧げなけれはならない大地は、あまりのことに実感が伴っていないことを
シャマンは気づいていた。
中村はシャマンを苦しめるために大地を過酷な状況に置いて愉しんでいる。
教育係として少しでも大地が苦しまない方法をと考えていろいろと世話を焼いていたことが、大地を特別視していると思われて裏目に出てしまった。
大地は他の見習いと比べて深く自分と関わってしまったゆえにこんなことになった。
シャマンの中に大地への罪悪感と負い目が大きく生じた。
ナブーが床入りの際にどういうことを好み、どう愉しむのか。
それを嫌というほど知っている自分は、こんなアドバイスをしてやることしかできない。
自分は何をしているんだ…という情けなさがシャマンを襲った。
「…もう少ししたら、世話人の何人かがこの部屋のものをデビュー寮に運び出しに来るようだ。お前はそいつらと一緒に行け」
シャマンは最後まで大地の目を見ずにそう言うと、出口の襖へと振り向いた。
「……っっ」
大地は身じろいだ。
ピンと来ていなかったが、今からシャマンとは陰間見習いと教育係の関係ではいられなくなる。
もうこんな風にいつも近くにいてもらうことなどなくなってしまうのだ。
(嫌だ、嫌だ…シャマンさん!!!)
大地の中にシャマンを失うことの猛烈なさみしさが生じた。
それは怖れと言ってもいいほど絶大なものだった。
そんな大地に気づいていたが、シャマンは部屋を出るため一歩踏み出そうとした。
何度も見つめたシャマンの背中。
ぶっきらぼうで多くを語らずとも、彼の優しさはいつも背中越しに伝わってきた。そのたびにどれだけ救われ、どれだけ心があたたかくなったことか。
シャマンが陰間だった過去を知った今となっては、その背中からは大地が辛い目に遭うことへの同情と無力感も感じ取れた。
どうにも胸が切なく苦しい。
この背中を、自分はもう失ってしまうのだ。
「、シャマンさんっ!!!」
大地は思わず叫んだ。
そしてシャマンが一瞬身じろいだ時、背後から抱きついた。
「っ……」
陰間デビューすること。
水揚げの相手がナブーだということ。
もうシャマンとは容易に会えなくなること。
この言葉には、幼い大地が抗いたくても抗えない悲しくて過酷な現実を拒絶したい、精一杯の想いが込められていた。
リオンのように、シャマンを困らせたくないからワガママ言わずにデビューを迎えたかった。
しかし、無理だ。
この人と離れたくない。失いたくない。
そんなこと叶いっこないとわかっているのに、ずっと抑えていた感情が溢れ出してしまい止められなかった。
「……」
背中に大地のぬくもりが伝わってきたが、シャマンはそんな少年を無視して前へ進もうとした。
「っっ!!」
大地はシャマンから拒否されてとてもショックだった。しかし、彼を逃すまいととっさに腕を伸ばした。
ぎゅ、とシャマンの腹に腕を回して背後から彼を拘束する。
大地にしては強引だった。シャマンとこのまま別れたくないという強い想いが、本能的に大地にそんな大胆な行動をとらせた。
「うっ、ぅくっ…ひ…ッッ、んんっ」
背後でしゃくり上げる大地の声を聞いて、シャマンは小さく俯いた。
自分の腹に回された小さな手は、自身の想いを表すように着物の生地を強く強く掴んでいる。
そんな真っ白な手を見てシャマンは胸が苦しくなった。
「……」
シャマンはおもむろに自身の手を伸ばし、大地の手に近づける。
逃すまいと必死に自分を掴む大地の手は、思いのたけをそこに込めているためか小さく震えていた。
この手は、自身のすべてでオレにすがっている。
助けてほしいと。ここから解放してほしいと。
シャマンはそのまま自分の手を、大地の手にそっと添えようした。
大地の望みを叶えてやることができぬのに、こんな時にまた一時の優しさを与えてしまうなどより残酷なことだと思った。
何もできない。大地が一番辛く苦しんでいる時に何もできないのだ、自分は。
重ねることをやめた手は行き場を失い、虚しく空を掴むしかできなかった。
もうシャマンへの気持ちが抑えられなくなって泣きじゃくる大地の耳に、廊下を歩く何人かの足音が聞こえた。
シャマンもそれに気づき、大地の手首を掴んで自身から引きはがした。
取りすがっていた身を離されて呆然とする大地。
世話人が入ってくるのと入れ違いにシャマンはそのまま部屋から出て行った。
「片づいてるから早く済みそうだな」
部屋の荷物を見て相談している世話人らの言葉を聞きながら、大地は小さくなるシャマンの背中を見ていた。
シャマンはいっさい振り返らなかった。
(嘘だ、これでお別れなんて…シャマンさん…!!!)
大地はもうたまらなくなって、狭い部屋に集まった世話人たちをかきわけてシャマンを追いかけた。
振り返らず足早に去ってしまったシャマン。
自分に対する拒絶と、もうこれ以上かまってやることはないという意思をそこに感じて、大地はあまりのショックにただただ彼が消えた廊下を見つめ立ち尽くした。
