百華煉獄107
 翌日、大地は初めてデビュー組の寮で目覚めた。

 デビュー寮は見習い寮とは違い洋式の造りだった。
 なので入り口は襖ではなくドアで、しっかりと施錠できるようになっている。
 建物ひと棟が陰間専用で、各部屋は間がゆったりと取られていた。
 決まった時間に研修を受ける見習いに比べ、陰間として働く彼らは寮に戻って来る時間がそれぞれバラバラになる。
 この造りはお互いの生活の邪魔をしないプライベートを重視した設計になっていた。


 デビュー寮に来る際、唯一楽しみにしていたことはミナトに会うことだった。
 しかし昨日は叶わなかった。
 きっと仕事が入っていたのだろう、ここで彼の姿を見ることはなかった。
 しかし会えても大地はミナトと話せる自信がなかった。
 いろいろなことがショックで頭がぼんやりとしていたからだ。


 邪動組という世界でも一、二を争う大規模な暴力組織の組長に、いまだ準備の整っていない身体を差し出すことになった。
 その組長は、子どもの頃中村屋の陰間として働くシャマンの顧客だった男だ。
 今もって何やら深い確執がありそうなふたり。
 しかし一番ショックだったのは、見習い寮の自室でとりすがる自分を振り切るように離れていったシャマンだった。

 もうデビューすることは避けられない。
 だからどんなに泣いても嫌がってもそこから逃げることなどできぬのに、あの時はどうしてもシャマンの優しさが欲しかった。
 シャマンに抱きついてしまったのは無意識だが、とっさにとってしまった行動にまぎれもない自分の本心が表れていた。
(シャマンさんだって、あんな風にされたところでどうしようもなくて困るのわかってたのに…オレ、やっぱりシャマンさんに甘え過ぎだな)
 一夜明けて冷静になった分、自分のわがままで一瞬でもシャマンに失望してしまったことに自己嫌悪を覚えた。

 シャマンにはもう会えないのだ。
 同じ中村屋の従業員とはいえ、近くにいても会うことが許されない遠い存在になってしまった。
 悲しくてたまらないが、これが現実だった。


 ゆっくりとベッドから降りて、顔を洗おうと洗面台に向かう。
 デビュー寮はワンルームではあるが各部屋に風呂や洗面所が備わっていた。
 この設備は見習い寮にはなかったものだ。
 ブルーグレーの壁紙が貼られている落ち着いた色合いの部屋には、ベッドやクローゼット、机の他に小さなテレビまである。
 例えるなら小洒落たビジネスホテルのようなイメージだろう。

 洗面台の鏡に写った自分はなんとも浮かない顔だった。
「はぁぁ…」
 大地は深いため息をつく。
 昨日、スタイリストに少しカットしてもらった髪のこともあって、鏡の向こうの自分は自分ではないように見えた。


 嫌な気分を吹き飛ばすように乱暴に顔を洗い、身支度を整える。
 その後は中村の指示で来た世話人に促されるまま、朝食を摂って再びスタイリストの元へと出向いた。



 連れていかれたのは美容室のように複数の鏡がある部屋だった。
 鏡の前の机にはさまざまなヘアメイクの道具が並んでいる。
 また、壁際のラックにはいろいろなタイプの着物が多数掛けられていた。

 昨日と同じスタイリストが大地を出迎え、ひとまずシャワーを浴びるよう促された。
 シャワールームから大地が出てくると、鏡の前に立つように言われる。すると背後からスタイリストが『少し顔色が悪いな』と鏡に映った大地をチェックし始めた。
 そうこうしていると、突如スッとした声が響いた。
「気分はどうだ、大地」
 部屋に現れたのは中村だった。


 小さく口の端を上げている彼は上機嫌そうだ。
 シャマンの顧客を大地にあてがうよう仕向けたのは中村だ。
 大地は中村がなんの目論見があってそうしたのかはわからなかった。
 ゆえに一層この男が不気味に思えた。

「……」
 黙ったまま警戒する大地を見て、中村はフン、と軽く鼻を鳴らして笑った。
「さァ、始めてくれ」
「はい」
 スタイリストは中村に促されるまま大地の着物を見立てて着つけしていった。

 
 通常、陰間のデビューは店内や中村屋のホームページにあるカタログから客に自分を選んでもらい、そこで初めて相手が決まる。
 しかし大地の場合はすでにデビュー相手が決まっているため、買い手のナブーの好みに応じたスタイリングが施された。
 ナブーが少年に求めるものは自然で素朴な少年らしさだった。
 彼は逆に派手派手しく着飾ったり、あざとく媚びのある不自然な美しさを嫌った。
 なので大地は化粧などを施さずともそのままで良く、着物はシックでも上質のものを普通通りに着るだけだった。

 水揚げ相手の好みに添った容姿になっているかどうか、中村は着つけや整髪を施される大地を上から下まで逐一確認していった。
 中村がVIP客に買われる陰間の準備に立ち会うのは、容貌のチェック以外に陰間が得物を隠したりしないようにというセキュリティの意味も大きくあった。
 スタイリストは中村に見つめられてずっと緊張している。
 自分の仕事ぶりにオーナーがダメ出しをするかもしれないというだけではなく、ネオ芳町の王者から発せられるプレッシャーが強大で気圧されていたのだ。
 中村に対する絶対的な畏怖。
 大地の髪を整える彼の手が震えていたことで、それが良く伝わってきた。


「よし、OKだ」
 中村から合格点がもらえてスタイリストは安堵の息を吐いて笑った。
 ほぼ手を加えられてはいないものの、全身をナブー好みに仕立てられた大地はそのままこの部屋で昼食を食べることになった。
 中村は昼食後もしばらくここで待つようにと言って部屋を出ていく。

(あいつ…いつ来るんだろう…)
 身支度が終わってもうそろそろだと思っていたのに、結局ナブーがいつ頃やって来るか知らされないままだった。
 スタイリストに代わって、今度は大地が緊張していなければならない番になった。
 食事が運ばれてきても箸を口に運べないまま時が流れた。



 中村は数時間後にシャマンの元へと向かった。
 実技研修の時間が終わって、職員ルームへ向かうシャマンを中村は呼び止めた。
「シャマン、大地の水揚げに立ち会え」
「……!」
 シャマンは眉をひそめて中村を見た。その様子に中村はくくく、と喉を鳴らして笑う。
「名門の大地はまだ満足に魔羅を受け入れられない。お前が傍にいてくれるとなると大地もリラックスできるだろう」
 さも大地のためを思って考えたことのように言う中村に苛立ってシャマンは言い返した。
「…お前はその方がおもしろいんだろうが…断る」
「ダメだ。ナブーがそう望んでいる。大地の水揚げ時にはシャマンが傍にいること。これが大地を買う時の条件だ」
「っ」
「この条件をお前が飲まないと大地の水揚げはご破算だ。大地がデビューできないとなると私ももう待てない。『太陽』から別の子どもを寄越してもらう」
「…!!!」


 大事な弟たちが中村の欲望の餌食になる。それは大地が最も怖れていることだ。
 これ自体が理不尽に大地へ突きつけられた条件なのに、シャマンの行動でこの話が勝手に進むなど大地が哀れ過ぎる。
 こんな風に言われればシャマンは絶対に従うはずだ。
 それを見透かされているゆえ、中村とナブーのおもちゃにされている。子どもたちを盾に取られると、自分にははなから選択肢などないのだ。


 シャマンの瞳に絶望の色が浮かんだところで、中村は言い放った。
「これは私からの命令だ。お前だって、特別に大事な大地が無事水揚げを終えられるかどうか気になっているだろう?」
 これ以上愉しいことはないというように笑いかける中村からシャマンは視線を外した。
「細かいことはナブーが来てから伝える。今から一緒に来い」

「……」
 廊下を歩き出した中村の背中を、力なく追いかける。
 足先の感覚が何もない。
 最悪な形で動き出した歯車に、シャマンは自身の無力さを痛感した。