百華煉獄11
 初めて来た街なのに。
 知らない人だらけなのに。
(オレ…どうなっちゃうの?このままこいつの言うこと聞かされちゃうのか?嫌だ、怖い!!)

 大地が必死に抗いながら恐怖に苛まれているその時、何かの衝撃が中年男と大地を襲った。
「ぐぇっ」
 その声の主は、今まで大地の腕を掴んでいたあの中年男。
 無様にも地面にひっくり返っている。


「……?」
 何が起こったのか、大地にはわからなかった。
 ふと自分の隣に誰かが立っていることに気づく。
 視線を移すと、若い男が中年男を氷のような瞳で見下ろしていた。
 中年男が地面に転がったのは、きっとこの男の仕業だろう。


 スラリと背の高い男だった。
 長身に加えスタイルも良く、ただ人を見下ろしているだけなのにその姿は見映えがして、幼い大地が見てもカッコ良かった。
 まるで中年男の対極に存在するかのような、対照的な人物だった。

 おまけに顔立ちが非常に美しかった。
 目尻がすぅっと伸びた涼やかな目、通った鼻筋、やや薄くて形の良い口唇。
 完璧と言えるほど整った容貌をしており、そのせいか血の通っていないような、冷たい印象さえ受ける。
 若草のような薄黄緑の短髪は粋で、凛々しい眉から伸びる額、ピョンと跳ねる襟足とのバランスが良く、この男をさらに魅力的に見せていた。


 中年男は地面に転がったまま、呆気に取られたように若い男と大地を見上げていたが、ハッと我に返って息巻いた。
「何すんだテメェ!」
 若い男は地べたに倒れている中年男を冷酷に見下ろしたまま、大地をかばうように彼と大地の間に入った。
 そして中年男から目をそらさず、背後の大地を軽くあごで示しながら口を開いた。

「こいつはオレのイロだ。勝手に逢引旅館に連れ込んでもらっちゃ困る」
 その声は凛と澄んでいたが、居丈高に中年男を威嚇する熱を孕んでいた。


(『オレのイロ』…?)
 自分のことを指しているのはわかるが、また大地に理解不能な言葉が出てきた。
 まったく、この街の人たちは知らない言葉を使い過ぎる。

 通りを歩いていた者たちは先ほどまであんなに無関心だったのに、若い男と中年男が衝突し出したので、何ごとかと興味深げに見物し始めていた。

 中年男には若い男に大地を横取りされたという怒りが芽生えていた。
 また大勢の前で恥をかかされたこともあり、興奮した。
「何が『オレのイロ』だァ、お前こそ勝手なこと言うんじゃねェよ。このガキはここで立ちんぼしてたんだ、それをオレが…」
 若い男と本格的に対峙するため立ち上がろうと、中年男が地面に肘をつく。
 その瞬間、にわかに浮いた胸を若い男は有無を言わさず真正面からブーツで踏みつけた。
 ドスッという低く重い音がして、中年男は強かに再び地面に背中をくっつけるハメになった。

「げぇ…!!」
 痛みと衝撃で、中年男はカエルのような声を上げた。
 大地は目の前でただならぬことが起こり、驚きと恐怖で固まってしまった。
 胸を踏まれた痛みで顔を歪ませながら、中年男は若い男の顔を見上げた。


 若い男は射抜くように、鋭く、また氷のように冷たい視線で中年男を睨んだまま、表情を変えずに告げた。
「キャンキャンわめくな。殺すぞ」
「……!!」
 若い男の目には情けなどなかった。
 胸に置かれた足にはさらに負荷がかけられているようで、じりじりと小さく震えている。
 このままではろっ骨を折られるのも時間の問題だろう。
 中年男はゾッとして全身を強張らせた。


 ふたりの様子に大地も見物人も皆緊迫し、こんなに人がいるのに誰も口をきいていない。
 若い男は少し口調を和らげて、大地をあごで示しながら言った。
「こいつはオレとケンカしたらいつもここに来て、オレへの当てつけに立ちんぼの真似ごとするんだ」
 そして困ったように肩をすくめた。
「そんな始末だからこいつは本気で立ちんぼする気はないし、毎回こうやってオレが止めに来て仲直り、ってことなんだが…今日はオレが
来るのが遅かったんで、あんたを誤解させちゃったみたいだ。悪いことしたなァ、ジュン?」
 シンとした空気の中、若い男が突然大地に振り返って同意を求めてきた。
「え…」
 大地が戸惑っていると、再度若い男は尋ねてくる。
「なんだよジュン、ボーッとして。聞いてんのか?」
「オレ…」
 ジュンなんて名前じゃない、と大地は答えてしまいそうになったが、途端に若い男に眼光鋭く睨まれて口をつぐんだ。


 大地を無理矢理逢引旅館に連れ込もうとした中年男は、若い男に胸を踏んづけられたまま、弱々しく口を開いた。
「な…なんでェ、こんなに男前の彼氏がいるんならもっと早く言ってくれよ、おじさん勘違いしちまったじゃないか」
 大地をちらりと見て、卑屈な笑顔を浮かべている。
 若い男と大地が恋人同士でないことなどわかっていたが、敵いっこないと降参したようだ。
 また衆人の中、恥を晒し続けているこの見世物のような状態に耐えられなくなったのだろう。

 若い男は中年男の言葉を聞いて、胸を踏みつけていた長い脚をおもむろにそこから下ろした。
 中年男は胸を押さえながら、のろのろと立ち上がった。
 痛みが強いようで、時折顔を大きく歪めている。
 だが、無理矢理モノにしようとした少年を、横から突然自分より容姿も腕っぷしもはるかに上回る若い男にかっさらわれた屈辱に耐えきれず、
そそくさと雑踏に消えていった。