その時、部屋の扉が突然開いた。
「……!!!」
中村だった。
いきなりのオーナーの訪問に驚いた大地は、その場に直立してしまった。
最後に別れた時、中村は大地がナブーに粗相を働いたことで厳しい表情を浮かべていた。
なのに今は反して満面の笑みだ。
あの冷徹な男が陰間に労いの言葉を掛けていることにも違和感を覚える。
不審な顔をしている大地がえらく機嫌のいいオーナーを見つめていると、その背後に人影が見えた。
背の高いシルエットの上部に見えるのはくすんだ黄緑の髪。
「…シャマンさん…!!!」
愛しい人の思いがけない登場に思わず声を上げてしまった大地だったが、シャマンは顔を上げずにずっと俯いていた。
なのでその表情ははっきりとは見えないが、全身に憔悴した空気を纏わせていた。
どうしているのか気になって仕方のなかったシャマンが、デビューした大地のもとに来てくれた。
もう逢えないと思っていたのに顔を見られたことが嬉しかったものの、彼の様子が明らかに昨晩のナブーの影響で困憊していることが見てとれて、
大地の胸に痛みが走る。
シャマンを気にしている大地を無視して、中村は入り口からずい、と部屋に入ってきた。
「めでたい話を持ってきてやったぞ。まァ座れ」
彼はすこぶる上機嫌らしく、部屋のミニテーブルにある椅子に腰掛けるよう大地を促す。
自身もそのセットの椅子に座り、目の前に同じように腰を落とす大地ににこりと笑い掛けた。
「気分はどうだ?」
「……」
「あまり良くはなさそうだな。昨日の今日だ。無理はない」
大地の顔色を見て察した中村は、答えられない大地に小さく肩をすくめてみせた。
中村の言動が何から何まで怪しくて、大地は視線を合わせられなかった。
大理石のテーブルに上下反転して映る中村の薄ぼんやりとした笑顔を見ていると、その口元から弾んだ声が響いた。
「ナブーがお前を身請けすると言ってきた」
「えっ」
大地は顔を上げた。
目を丸める大地に中村はより一層笑って続けた。
「おめでとう」
「……!!!!!」
身請け。
大地は並木の授業で習ったその言葉を頭の中で反芻する。
陰間は多額の借金を抱えているか、身内が費用がかさむ何かに関与しているなど、やむにやまれぬ事情でこの仕事に身をやつす者がほとんどだ。
そんな中、陰間を気に入った財力のある客が現れ、借金を帳消しにしてやろうとかそれらのしがらみをすべて肩代わりしてやろうと言う場合がある。
店側と客、双方が話し合いの末に互いの条件に異論がなければ、そこで身請けの契約成立となる。
身請けされた陰間は、したくもなかった陰間稼業を辞められる代わりに、その客のお抱えの愛人となるというのが一般的な流れだった。
中村の言ったことを、並木の説明に当てはめて考えてみる。
あのナブーのお抱えに自分がなるなんて。
大地はぞっとした。
「い…」
「お前の可愛い弟たちのことを思えば、嫌とは言えないはずだ。身請け話にもその条件は生きているんだからな」
「…っっ!!!」
中村は前のめりになり、大地の顔を覗き込んでその言葉を遮った。
相変わらずその顔には微笑みが宿っているが、にたりと笑う口元に反して目は大地を鋭く見据えており、なんとも怖ろしかった。
「あのナブー御指名のデビューというだけでもすごいのに、一度の床入りで身請けに至るなどとんでもない大出世だ。まさにシンデレラボーイだな。
名門に加えてまたひとつ箔がついたぞ大地」
「っ…、…!!!」
大地が激しい動揺で息を喘がせている。中村は容赦なく言い放った。
「橋本にももう伝えてある。電話の向こうで喜びのあまり失神しそうになっていたよ。無理もない、お前が想定外の極太客に一夜にして気に入られて
大金を手にできるんだ。電話を切る直前に『一生遊び呆けて暮らせる』と声をひっくり返して叫んでるのが聞こえてきた」
クックッ、と喉仏を揺らせる中村の声が遠くで聞こえる。
橋本の喜び様が目に浮かぶようだった。
(嫌だ、嫌だ…オレ、あんな…ナブーなんかに…)
昨晩のことがこんな話の出た今になって生々しく大地の頭に蘇る。
野獣のような性欲とグロテスクな逸物で大地を支配し、かつてのお気に入り陰間だったシャマンを傍に置いてとことんまで恥辱に晒した男。
そんなナブーに金銭的な世話を受ける代わりに、性的満足感を与え続けなければならない。
彼とずっと関与していくことなど、大地からすれば地獄を意味していた。
それに、身請けされれば中村屋を出ていかねばならない。
ここで陰間でいるうちはシャマンの近くにいられることでなんとか心を保つことができたのに。
見習い時期に比べるとほぼ逢えるチャンスなどないだろうが、それでも同じ中村屋に属しているというだけでまだ救われたのに。
それすらも自分にはなくなってしまう。
大地はそう思うと狼狽し、中村から視線を外してシャマンを見ようとした。
しかし、中村がまたしても大地の行動を妨害する。大地の目線が自分から外れる前に、張った糸を弾くような良く通る声で言った。
「今回の身請けにはナブーが提示した条件がある」
シャマンにすがろうとした大地の気持ちに気づいている中村は、その言葉にハッとして自分に再び注目する大地に、してやったりとばかりにほくそ笑む。
「ナブーが言うことには、身請け後もお前の身柄はこのまま中村屋にとどめておいてほしいとのことだ」
「…ぇ…?」
「通常、身請け後は客…陰間にとってはその日から『旦那様』になる男の傍で、陰間茶屋を辞めて日常生活を送るようになるわけだが、ナブーはお前に
それを望んでいない。お前の住まいはここに据えたままにしろと」
「?」
どういうことだろう。
何故大地を中村屋に残しておくのだろう。
ナブーと中村、双方になんらかのメリットがないと、ナブーはこんなことを言い出さないはずだ。
それにそもそも客をとらない陰間をひとり中村屋に置いておくなど、強欲な中村が許さないだろう。
長いつきあいのある彼らは、互いのことが良くわかっているはずだ。
大地がまんじりとそんなことを考えていると、中村の説明が続いた。
「私が肩代わりした橋本の借金の支払い、これからのお前の生活費、そして身請け代。人気陰間間違いなしだった名門のお前を早々と身請けするのだからと、
ナブーは莫大な額を私に支払ってくれたよ」
守銭奴と噂される中村がこれだけ嬉しそうな顔をするのだ。相当な額の金が、この身請け話で動いたのは間違いなかった。
(……?)
わからない。
自分に対してナブーが何故こんなことを言い出して、中村がそれを叶えるのか。
もしや、身請けをされてもなお、ここで陰間をしなくてはならないのではないか。
「っど、どうっ…」
どういうことですか、と続けたいのに、息が整わずに言葉が続かない。
中村はそんな大地を少し憐れむように眉をひそめて笑った。
言いたいことが言えないほどの混乱に見舞われている目の前の少年を、苦笑交じりに見つめながら言う。
「中村屋に住むと言っても、お前はナブーが身請けしているのだから客をとる必要はない。ナブーが出した生活費でここで暮らせ。不定期だろうがそんな中で
ナブーはお前に逢いに来ると言っていた」
「……」
少しだけ詳細になった条件を聞けば、大地になお不信感が募った。
ナブーの愛人。なのにここに住んで、彼が通いに来る。
良くわからぬ条件に、なんだか気持ちが悪くて仕方なかった。
