謎に満ちたシャマンの過去。
彼に憧れ恋い焦がれる数多の陰間や見習いが皆知りたがるそれは、実に壮絶なものだった。
シャマンは幼少期に父と母を交通事故で亡くしていた。
まだ三歳の彼を親代わりになって育ててくれたのが、歳の離れた姉ナオコだった。
ナオコはふんわりとした、それでいてしっかりとした思いやりのある美しい少女だった。
その頃十八歳でまだ高校生だったナオコは、自身も両親を失って大きなショックが残る中、生活のために高校を中退してがむしゃらに働いた。
幼い弟にひもじい思いはさせたくないとの一心だった。
若い女性が小さな子を抱えてひとり育てていくのは、容易なことではなかった。
だが一生懸命シャマンを育てながら仕事に従事するナオコの姿に、周囲の人たちは惜しみない協力をしてくれた。
ナオコの愛情を一身に受けて、シャマンはすくすくと成長していった。
そして七年が経った。
贅沢は厳禁だったが、ナオコとシャマンはなんとか人並みに暮らしていけるようになった。
「……」
シャマンはナオコを起こさぬように、そーっと玄関のドアを閉めた。
まだ外は薄暗く、少し寒い。
心の中でナオコに小さく『いってきます』と呼び掛けて、シャマンはまだ明けきっていない早朝の街を駆け出した。
シャマンは十歳になったと同時に、新聞配達のアルバイトを始めていた。
それは近所の知り合いのところで、姉弟ふたりで暮らすシャマンたちをずっと気に掛けてくれている人たちの中のひとりだった。
幼い自分を今日まで大切に育ててくれた姉。
少しでもそんな姉の助けになればと、自主的に知り合いに声を掛け、頼んだのだ。
もちろんナオコはシャマンがこのアルバイトをしていることは知っていて、当初心配はしていたが同時に弟の気持ちを知って喜んでいた。
シャマンは連日仕事で帰りが遅いナオコを気遣い、起こさぬようにいつもそぅっと家を出る。
思春期に入り、気恥ずかしさで昔ほど話さなくなっていたが、シャマンはしっかりとナオコの愛情を感じていた。
「シャマン、大事な話があるの」
夕食時。
白い頬を赤く染めながら、ナオコが妙に改まって話し掛けてくるものだから、シャマンは不思議そうに彼女を見た。
「なんだよ大事な話って」
「…お姉ちゃんね、結婚することになったの」
「結婚?」
「うん」
そう答えて、ふふ、と恥ずかしそうに笑うナオコは、弟のシャマンから見ても美しかった。
二十五歳になったナオコの婚約相手は、『紅屋(くれないや)』という大きな旅館を営む家のひとり息子だった。
その大手旅館は高級で有名だったので、子どものシャマンでも知っていた。
一瞬そんなところに嫁に行くというナオコは騙されていやしないのかと思ってしまったが、ナオコはしっかり者で良く人を見ている聡明な女性だ。
そんな彼女が決めた相手なら間違いないだろう。
「相手の人はね、秀人さんっていうの。のんびり屋さんで、ちょっとお調子者なんだ。でもとってもいい人よ」
「へぇ」
幸せそうに婚約者の人柄をシャマンに説明するナオコは、二十五歳だというのに少女のようにキラキラと目を輝かせている。
その秀人という男にナオコが心底惚れているのが伝わってきた。
シャマンは、自分をここまで育ててくれたナオコが幸せを掴んだことが、純粋に嬉しかった。
今まで苦労してきた分、これからは幸福な人生を歩んでいってほしい。
シャマンはキラキラとまぶしいほど幸せそうなナオコを前にして、俯きながら言った。
「ナオコ、お…」
多感な年代に入って、シャマンは姉を昔のように『姉ちゃん』と呼ぶことがなくなり、代わりに名前の『ナオコ』と呼ぶようになっていた。
呼び捨てにするところに男の子独特のシャイな気持ちが表れていて、ナオコはかえってシャマンの甘えを感じられてくすぐったい呼び方だった。
「ぉ、おめでとう」
「…ん、ありがとう」
伏し目がちに赤面しながらお祝いの言葉を言うシャマンを、ナオコはさらに愛しく感じた。
結婚した後の話として、シャマンは秀人とナオコ夫妻と一緒に住む話が決まっているとナオコは伝えた。
「私が結婚する相手への条件として、シャマンを大事にしてくれて一緒に住んでくれる人っていうのが第一だったの。秀人さんは私が提案する前に
自分からそう言ってくれてね」
嬉しそうに言うナオコに、シャマンはからかい気味に言った。
「『結婚する相手への条件』なんて、やたら上から目線だなナオコ」
「ええ、あなたは知らないでしょうけど、私実はモテモテなのよ?よりどりみどりなんだから」
「へ〜ぇ。その割に男っ気が一切なかったけど」
「あ、信じてないでしょう。本当よ!」
幸せいっぱいの明るい空気に包まれた食卓で、ふたりは笑い合った。
その数日後、シャマンはナオコから秀人を紹介された。
実際会った紅屋の跡目は、ナオコから話してもらったとおりののんびりおっとりとした好青年だった。
気さくで人の良さそうな秀人は、大店の御曹司だというのに偉ぶった様子が少しもない。
むしろ冗談を言って一生懸命場を和ませようとする姿に、シャマンは好印象を抱いた。
お坊ちゃんゆえにのんびりしていて頼りないところは多少あるようだが、その分ナオコがしっかりフォローしているので安心だった。
シャマンが一緒に住むことも、秀人の口から改めて申し出てくれた。
ナオコに同居の話を聞いた当初は、新婚夫婦の邪魔をするようだし、経済的なこともあって少し遠慮していたシャマンだったが、紅屋の財力を考えると
何の問題もなかったし、何より秀人が是非にと大乗り気だったので甘えることにした。
シャマンはこの人ならナオコを幸せにしてくれると思い、心から祝福した。
ナオコが嫁入りする紅屋という旅館は、今二代目の清蔵が父である創業者から跡を継いでいた。
清蔵は創業時の小さな民宿を高級旅館へと変貌させた、経営手腕に優れたやり手だった。
今では大物政治家などが外交や懇談に使ったり、日頃の疲れをいやしに利用する評判の大店だ。
清蔵の嫁は二十年前に亡くなっており、後に後妻をとらなかったため、女将はそれからずっと従業員が担っていた。
清蔵が腹心の部下と大事に大事に繁栄させてきたのだ。
そんな清蔵だったが、二年前に心臓の大病を患って気弱になっていた。
息子の秀人に三代目を引き継がせる時期はそう遠くないであろう。
二町隣に二号店出店の計画を立てていたため、いずれ本店になるここを継がせる前に、息子にはひとまずそこでしっかり修行をしてもらおうと考えている。
どうやら従業員からその噂を聞いて、秀人は張り切っているようだ。
幼い頃から学ばせていた経営学や帝王学。
これからはさらに身を入れて励んでもらわなければならない。
しかし秀人は生来ののんびりとした性格が災いしてか、いまいちしっかりしていなかった。
愛嬌があり、従業員や昔馴染みの業者から愛されている秀人だったが、それだけでは紅屋の跡目として充分ではない。
もっとしっかりしてほしいと、やきもきしている清蔵だった。
