「父さん、この人がナオコさんだよ」
「ナオコです。今日は大変お忙しい中、お目通りいただくお時間をいただきまして、ありがとうございます」
礼儀正しく挨拶し、頭を下げるそのナオコという女性は、上品でとても美しかった。
「ああ、私が秀人の父、清蔵です。秀人がこんなに素敵な女性とおつきあいしているだなんて、初耳だな。こちらこそお会いできて嬉しいよ」
「なかなか言い出せなくてごめん。紅屋経営に向けていろいろと勉強している最中に結婚したいなんて言うと、父さんにどう思われるか心配で」
秀人は突然の婚約報告に父が気分を害さないかと気掛かりだったようで、心配そうに清蔵を見ている。
だが、清蔵はナオコの存在を歓迎した。
結婚相手がいるのなら、秀人も張り合いが出て経営学にもっと身を入れるかもしれない。
聞けば、ナオコはまだ十代という若い頃から、幼い弟をひとりで育ててきたと言う。
そう言うだけあって、秀人の隣に立っているだけなのにしっかりしている印象がこちらに伝わってくる。
紅屋三代目の嫁になる女性は、慎重に選ばなければならない。
でも清蔵は、ナオコをひと目見てこの女性なら大丈夫だと感じていた。
経営手腕に大きく優れ、多くの人を見てきた清蔵の、本能的な直観だった。
「ふむ、ナオコさん」
「はい」
ナオコは緊張気味に清蔵の目を見る。
清蔵には大手旅館を切り盛りしていて自然に身についた、独特の迫力があった。うら若き女性のナオコは、何を言われるのかとぐっと息を飲む。
そんなナオコの張りつめた気持ちが伝わってきて、清蔵はフッと笑った。
「…ナオコさんには、これから秀人の伴侶として、また紅屋の次期女将として、秀人を支えていってほしい」
「と、父さん?」
ナオコとほとんど話していないのにもう結婚を了承する父に、秀人は驚いた。
清蔵は秀人の呼び掛けに応じず、ナオコに視線を注いだまま告げた。
「私が秀人の妻になる女性に出す条件はそれだけだ」
「…はい、お支えします。どんな時でも秀人さんとともにあり続け、添い遂げます」
真摯な瞳で清蔵に対し答えるナオコに、清蔵はゆっくりと何度もうなずいた。
清蔵とナオコふたりでどんどんと話が進んでいくので、自分も当事者の秀人は呆けたような顔で呟いた。
「…僕は父さんがなんと言おうとナオコと結婚するつもりだったけど、あの…あっさりOKしてくれてその…拍子抜け…」
そんな秀人が可笑しくて、清蔵とナオコは噴き出した。
ナオコの答えは、二人三脚で夫と歩んでいこうとする強い決意と覚悟が感じられて、胸が熱くなるものだった。
気立てが良くすこぶる美人の彼女なら、客評判のいい名物女将になってくれるだろう。
彼女がいるのなら、まずは二号店をこの秀人夫婦に任せても問題はなさそうだ。
ナオコにはまだ十歳と幼い弟がいる。
その子がいいと言うならば、秀人やナオコを支えるべく紅屋で働いてほしい。
そして三号店、四号店を出店し、一族でどんどん紅屋を大きくしていきたいなど、夢が膨らむ。
紅屋の将来は明るかった。
自分の身体のことや秀人にもう少ししっかりしてもらいたいなど多少の不安はあるものの、みんなで力を合わせれば安泰だと思えた。
とんとん拍子に話は進み、一ヶ月後に秀人とナオコは祝言を上げることになった。
両家の顔合わせで、シャマンは初めて清蔵と会った。
今まで見たこともないぐらいのお金持ち、しかも経営者など、シャマンからすると未知の世界の住人でしかない。
それゆえに、どう接していいかわからなかった。
だが清蔵は子ども好きなようで、シャマンを何かと気に掛けてくれた。
「シャマン君は新聞配達のアルバイトをしていると言っていたね。朝早いんだろう、眠たくないか?」
「…んん、眠たいですけど…ナオ…ぁっ、姉のこと考えるとそんな愚痴言うのは違うって言うか…」
「姉さん想いなんだな」
「いや、そんなことね…な、ないです…」
優しい目で見つめられ、シャマンは照れくさかった。
清蔵はシャマンと出会ってから、さすがにあのナオコが育てただけはある利発な子どもだと感心していた。
姉の愛情をきちんと受け止め、それを返そうという姿勢。
まだ十歳と幼いのにそれをおのずから自然と行動に移せるシャマンがたのもしく、その将来性の高さに期待を寄せた。
清蔵との会話でもじもじしているシャマンを見て、ナオコが笑う。
「あ〜、シャマンったら褒められて照れてるー」
「う、うるっせェナオコ!」
ナオコのからかいに照れ隠しでつい言い返してしまった。
ヒヤッとしてシャマンは慌てて口をつぐむ。
「これこれシャマンくん、それはいけない」
清蔵に注意され、シャマンはハッとなった。
やばい、こんな大事な席で無作法な態度をとってしまった。
焦るシャマンに清蔵はフフンと悪そうな笑みを浮かべてこう言った。
「そういう時はこう言うんだ。『おやかましいですよ、姉上様。ご静粛にあそばせ』とな」
「……!」
てっきり叱られると思っていたシャマンにウインクをしてみせる清蔵。
思わずシャマンは笑ってしまった。
シャマンは清蔵を見ていると、記憶にはないが父とはこんなものなのかもしれないと思い始めていた。
大きな愛情で包んでくれるその存在。
恥ずかしくてくすぐったくて、おもはゆいけど決して嫌じゃない。
うずうずと落ち着かなかったが、シャマンは清蔵が話し掛けてくれるのが嬉しかった。
秀人とナオコも、ふたりの会話を微笑ましく見ていた。
会食の席は暖かい空気に包まれていた。
祝言が無事に済んで、いよいよナオコたちの新婚生活がスタートすることになった。
シャマンも紅屋の敷地にあるふたりの新居に移った。
どこもかしこも広大で豪華だった。
従業員やお手伝いさんもたくさんいて、驚きの連続だった。
今までの質素な生活からするとすべてが嘘のような世界で、圧倒されながらもシャマンは幸せな生活を始めていた。
そう、みんな幸せだった。
シャマンもナオコも、秀人も清蔵も、紅屋の従業員などこの店に関わる全員が皆幸せだった。
…あの男が現れるまでは。