残酷な事態を次々と知らされて、窮地に陥った秀人とナオコ。
大広間にぽつんと残った秀人は、脱力して畳にへたり込んだ。
「もう…おしまいだ…何もかも…あの男、最初から…ちくしょう、ちくしょう…」
怒りに任せて畳を叩き、嘆く秀人。
最悪と言ってもいい青天の霹靂の連続で、絶望しかないこの状況を打開する案も浮かばない。
しかし、妻のナオコは秀人に寄り添い、気丈に励ました。
「秀人さん、こうなってしまった今、これからのことを考えましょう。中村はああ言ってたけど、自己破産はいい弁護士さんを見つけて根気よく申請してみましょう。
とにかく残された私たちで頑張るしかないわ」
ショックの連続でこれ以上なく打ちのめされている秀人には、ナオコの言葉が素直に届かない。
彼は大きく襲う不安感ややるせなさをぶつけるところがなく、いきり立った。
「頑張るって何を頑張ればいいんだ!!もう紅屋はなくなったんだぞ!!くそ、親父め…なんてことをしてくれたんだ…!!」
「なんてことを言うの、お義父様は紅屋のことを誰よりも愛し、お考えになっておいでだったわ!お義父様を悪く言うのはダメよ!」
紅屋への愛情は、息子の秀人に対する愛情そのものだった。
それをよく知るナオコは秀人をなじった。
秀人は心外とばかりに言い返す。
「誰よりも愛していた?誰よりも考えていた?じゃあなんでこんなことになった!!なんでこんな…従業員も、つきあいのあった業者もみんな離れていっちまう
事態になった!?挙句に一生かかっても返せない大借金を息子のオレに背負わせて…すべて親父が招いたことじゃないか!!」
普段はお調子者で、お坊ちゃんらしく人と争うのを好まない秀人。
しかし激情にかられてしまい、冷静さを欠いていた。
正直、ナオコにも今後の展望などまったく見えないでいた。
ともすればナオコも彼の興奮に引き込まれそうなほど、胸中に大きな動揺が広がっている。
(しっかりしなきゃ…)
そう自分に言い聞かせて、ナオコは秀人の狂乱状態に緊迫感を抱く。
そして袂に忍ばせていたある紙に、袖の上からそっと触れた。
一瞬、清蔵を責める秀人にこの紙を見せようかと思ったが、この状況ではさらに彼を興奮するだけだと考えてやめた。
ナオコが絶望する秀人をどうにか勇気づけようと言葉を探していると、秀人が悲痛な声で叫んだ。
「もうおしまいなんだよ!!!もう終わりだ、何もかも終わりだ!!!!!」
錯乱状態で、彼はそのまま大広間を飛び出していった。
「秀人さん!!!」
あの状態では何をするかわからない。
ナオコが追いかけようとすると、すぐに秀人の姿が現れた。
その手には大きな日本刀が握られていた。
「ナオコ、死のう」
「!!!」
ナオコが叫ぶ間もなく、秀人は刀を振りかぶって彼女に鋭く切りつけた。
「あぁうっ!!」
ナオコは左肩から右わき腹にかけて、斜めに大きな刀傷を受けてその場に倒れた。
「…っ…ぅ…」
痛みに苦しむナオコを、秀人は目を見開いて見ていた。
彼の瞳からは涙が溢れ出していた。
「ナオコ、すまないな…でも死んだ方が幸せなんだよ、こんなの…オレも死ぬから、天国で幸せになろう」
「…だ、め…秀…」
ナオコは苦しい息の下、秀人が何をしようとしているのか気づいて止めようとするが言葉にならない。
「また後で逢おうね」
そう一言残して、秀人は自分の喉に刃をあてがった。
「い、…や秀人…さ…!」
ナオコの声が聞こえているのかいないのか、秀人はそのまま刀を横に大きく引いた。
「……!!!」
夫の首から血がほとばしるのを見るナオコの瞳からも、涙が溢れていた。
シャマンはそんなことが起こっているなど知らずに、この日も下校がてら紅屋に寄った。
清蔵が死んでみんな気落ちしているから少しでも店のことを手伝って、いつもの紅屋に早く戻ってほしい。
そんなことを考えながら紅屋の従業員専用出入り口に向かう。
今日の紅屋は少し様子がおかしかった。
従業員らの姿が見えず、人気を感じない。
(なんか変だな。あ、でもそう言えば話し合いが大広間であるって言ってたっけ。それにしても他の場所にも誰もいないなんて…)
シャマンは不審に思いながら大広間へと走った。
「!!!!!」
そこには信じられない光景が広がっていた。
喉からの大量出血で絶命している秀人と、刀傷だろうか、同じく肩からおびただしい血を流して倒れているナオコがいた。
「ナオコ!!!」
あまりのショッキングな光景に一瞬言葉を失ったが、シャマンは倒れているナオコに駆け寄り、抱き上げた。
シャマンの顔を見て、真っ青な顔色だが微笑む姉。
何があったかわからないが意識があることにほんの少しではあるが安心し、助けを呼びに行こうとした。
「ナオコ、今救急車呼んでくるから!」
「…ぃ、いいの」
ナオコは立ち上がりかけたシャマンを、力なく上げた腕で制した。
「っ、良くないよ、今呼ぶから」
「…シャマン、私の…最後のお願いを聞いて…」
蚊の鳴くような声でナオコは弟に訴えた。
「さ、最後ってなんだよ。大丈夫だよ助かるから!」
「ううん、お姉ちゃんはもう…」
「何弱気なこと言ってんだ!」
「私はもうすぐ死ぬわ…い、今から…今から大事なことを言うから、良く聞くのよ…」
「……!!!」
シャマンはナオコの言葉を聞きたくなかった。
聞いてしまえば、本当にナオコが死んでしまう気がしたからだ。
そんなシャマンの気持ちを察して、ナオコが息も絶え絶え告げた。
「さ、最後の…お姉ちゃんの最後のお願いなんだから、ちゃんと、聞きなさい…」
姉らしく、弟に言い聞かすように決意を秘めてシャマンの目を見た。
「紅屋は、中村という男にのっとられてしまったの…中村はお義父さんから紅屋を受け継ぐ有効な書類を持っているから、みんな従わざるを得なくて…
それに絶望した秀人さんは…」
ナオコの目から大粒の涙がこぼれた。
シャマンは秀人に視線を移す。
「っ…」
良く見ると、彼の右手には長々とした血まみれの日本刀が握られていた。ナオコの傷は彼女の左肩にある。
「……もしかして…」
シャマンはあまりのことに愕然とした。
ここまでは、ナオコがこんな目に遭ったのは妙な連中を引き連れていた中村という男の犯行かと思っていた。
違う。
姉は愛する人の手によって、切りつけられたのだ。
シャマンが言葉を失ってナオコを見ると、彼女は袂から震える手である紙を取り出した。
「シャマン…この紙を大事に、大人になるまで大事にとっておくのよ…誰にも知られずに、大事にとっておいて」
シャマンの手にその紙を握らせる。
紙もシャマンの手も、ナオコの血にまみれた。
「…?」
「今はまだなんの効力もないけれど、あなたが二十歳になった時、必ずあなたの身と、この紅屋を守ってくれるものなの。二十歳になったら、役所へ届け出なさい。
だからそれまで…誰にも知られずに…決して、決して中村やその手下たちにこの紙の存在を知られてはならないから、管理には充分に気をつけなさいね」
ナオコがこんな状態になってまでシャマンに伝えたいこと。
とてつもなく重要な意味を持つこの紙の正体とは、いったいなんなのだろう。
「この紙はなんなんだ…?二十歳になった時…どんな意味を持つようになるんだ?」
そう呟いてシャマンが紙に書いてある文字に視線を移した瞬間、ナオコが大きく咳き込んだ。
「!!!」
その口から鮮血が大量に吐き出された。
「っ…ナオコ!!!」
「…シャマン…」
ナオコは必死に何かをシャマンに訴えようと、震える口を小さく開閉させている。
「何!?」
シャマンはナオコの口元に近づき、一言も漏らすまいと必死で耳を傾けた。
途切れそうな声で、ナオコは続けた。
「これからの十年、あなたにとって、とても辛いものになる…二十歳を迎えるその日まで、それはそれは例えようのない、地獄のような毎日を過ごす十年に
なるでしょう。…でも、あなたは生きるの。お姉ちゃんの代わりに生きるのよ…!」
息も絶え絶え、顔は血の気が失せて真っ白なのに、シャマンの腕を掴むナオコの力は強かった。
「どんなに辛くても、耐えて耐えて耐え抜いた十年先に、紅屋をこんな風にした…秀人さんやお義父様、私をこんな目に遭わせた中村たちに、復讐できる
光が射すはず…」
シャマンは中村が紅屋に対し行ったことがらを充分に把握できているわけではなかった。
だが姉の気迫に、彼女の執念とも言える並々ならぬ強い想いだけはしっかりと伝わっていた。
黙った自分を見つめるシャマンの頬を、ナオコは優しく撫でた。
「シャマン、ごめんね。あなたにこんなお願いしをして…許してね。私を許してちょうだい」
くやしげな顔で涙をぽろぽろとこぼすナオコ。
どんなにおっとり見えても、心は誰よりも強い娘なのだ。
「ごめんってなんだよ、オレ、ナオコにあんなに一生懸命育ててもらって、謝られることなんてひとつもないよ!」
力ないものの、それを聞いてナオコはフフ、とかすかに微笑んだ。
「あなたはとてもいい子ね…そんな風に育ってくれて、嬉しい…」
そして、愛おしげにシャマンの頬を撫でて、呟いた。
「お姉ちゃん、くやしいよ…あなたが大きくなって、大人の男性になるところが見たかった…きっと、それはそれは素敵な人になることでしょうね…」
ナオコはそう言うと、瞳を閉じた。
それと同時に、白く透き通る肌に涙がすぅっと弧を描いて流れた。
「っ、ナオコ?」
シャマンは腕の中のナオコの身体が、ずっしりと重くなるのを感じた。
「おい、死ぬなよ!死ぬなよナオコ!起きろよ!!」
どんなに揺すっても、ナオコが目を開く気配はない。
「〜〜〜〜、」
シャマンは途方に暮れた。
この世で一番大切な、血の繋がったたったひとりの姉。
そんなナオコが目の前で死んでいく。
気が狂いそうだった。
「まだ、まだ礼も言えてないのに…今までしてもらったこと何ひとつ返せてないのに、死なないでくれよナオコ!」
白い顔で眠るように死んだ姉を抱きしめた。
「……姉ちゃん…!」
近頃は思春期の照れもあってそう呼ぶことはなかったが、誰よりも何よりも愛していた、世界でたったひとりの姉を切なく呼んだ。
