百華煉獄13
(なんだかやだなァ、この人と別れるの。中村屋の近所の人だったらいいのにな…)
 うっすらそう思っていると、若い男が突然歩みを早め、路地裏に消えてしまった。

「!!」
 見失ってしまった。
(いやだ、せっかくここまで一緒だったのに!)
 若い男が眼前からいなくなるとひとりぼっちになった気がして、途端に怖ろしくなる。
 大地は若い男の姿を確認しようと、大慌てで駆け出した。


 男が消えた路地裏への曲がり角を曲がった途端、何かに顔面からぶつかってしまい、大地は顔を抑えた。
「いって~…」
「おいこら、なんの真似だ」
 大地が赤くなった鼻を手でかばうようにしながら涙目で見上げると、あの若い男がいた。
 どうやらぶつかったのは彼の胸元らしく、真上から自分を見下ろしている。
「ずっとつけてただろう。なんの用だ、その年でもう立派なストーカーか?」
 男の言葉に大地は赤くなって言い返した。
「ストーカーって…!オ、オレが行きたい方向に、あなたがたまたま同じように歩いてただけだよ。つけてなんかないさ!」
「へェ、行きたい方向にねェ。ここはこんなありさまだが」
 若い男は大地の視界を広げるため、すっと脇へよける。

 そこはこの界隈のゴミ集積場になっていて、回収されなかったゴミ袋や雑誌が散乱していた。
 ここから道が新たに派生していることはなく、行き止まりになっている。
 用事がない限り勧んで来る人間はいないところだった。


 大地は口ごもった。
 とっさにどうにか誤魔化そうと、ばつが悪そうに答える。
「ゴ…ゴミがあったから捨てようと思って…」
「ふぅん?」
 若い男は大地を見つめたまま、整ったあごのラインを強調するように仰向く。

 明らかに大地の嘘を見透かしている。
 大地はバレバレの嘘をついた自分が恥ずかしくなり、はぐらかすように目をそらした。


 男は気を取り直したように言った。
「このあたりはさっきのところよりもっと物騒なんだ。何も知らないガキがフラフラ歩いてると、さっきの二の舞だ」
 物騒と言われて怯えた大地だったが、ここへ来るのには正当な理由がある。
「でも、ここへ行くよう渡されたメモにはこのあたりって…」
 そう答えた大地がメモを差し出す。
 若い男は呆れながら受け取り、それを目にした。

「……!!!」
 書かれている店の名前を見て、若い男が目を見開いた。
「ね、中村屋さんってこのあたりでしょ?」
 大地がそう言うと、男は大地の問いには答えず、逆に問い返した。
「お前…中村屋に来たって言うのか」
 男が固い表情を見せるので、大地はどうしたんだろうと不思議に思った。
「…うん。茶屋で働くようにって、中村屋のご主人と、僕がいた施設の院長から勧められたんだ」
「施設の院長?」
 男はますます険しい表情を見せる。
「うん、『太陽』っていう、孤児院の院長だよ」


「……」
 メモを手にした男の指が震えている。何か様子が変だ。
「お前、自分が茶屋で何をさせられるのかわかってるのか」
「え…ううん。それは中村屋さんで聞きなさいって言われてるから」

 その答えを聞いて、若い男は沈痛な面持ちで大地を見た。
 その顔は、壁の向こうでネオ芳町の出入り口を教えてくれた女性が見せた表情とそっくりだった。


 明らかにおかしい反応を男が見せていると気づいた大地は、若い男に尋ねた。
「あの、それが何か…?」

 その時、路地裏に面した通りから声を掛ける者がいた。
「おお、大地くん。遅いと思ったらこんなところにいたんだな」
 声の主は中村だった。
 大地はその姿を認めて、驚いて詫びた。
「遅くなってすみません!もうとっくにお店に着いていないといけないのに…!」
「ああ、門の方からは君が十時過ぎにこの街に入ったという連絡は受けていたんだ。それにしては時間がかかっているから、もしかして妙なことに
巻き込まれてるんじゃないかと心配になってね」
 どうやら門を通過したことは、行き先に知らされるシステムらしい。
 どういう目的でそうしているのかはわからないが、ネオ芳町は出入りする人間の管理を徹底して行っているようだった。


 大地は中村の言葉を受けて、広場での騒動を思い出す。
 あの時はここにいる若い男が助けてくれたからことなきを得られた。
 大地は今さら中年男の強引さを思い出して身震いした。
 そして、中村に再度謝った。
「お、お忙しいのに…申し訳ありません!」
「いいや、こうやってちゃんと会えたんだ。気にすることはない。それに、シャマンが一緒だったのなら安心したよ」
 中村は大地の背後にいる若い男をちらりと見た。

「シャマン?」
 大地は中村の視線を辿り、その名前を口にした。
 中村がこの男の名を知っていることが驚きだった。


「おや、自己紹介がまだだったのか。この男はシャマンと言って、うちの従業員のひとりだよ。その辺の話をしてないとなると、何かの拍子で
偶然知り合ったのかな?」
(この人、中村屋の人だったんだ!)
 大地はシャマンが同じ茶屋で働いている者と知り、心底喜んだ。
 心細くて不安な気持ちが一気に吹き飛ぶ。

 キラキラ輝く瞳でシャマンを見て、中村に報告した。
「僕、さっき変な人にからまれちゃって、シャマンさんに助けてもらったんです!」
「そうかそうか、それは良かった。シャマン、大地くんは無事なんだな」
「……」
 中村の問いかけに、シャマンは何も答えなかった。
 先ほど話をしていた時と変わらず暗い表情のままだったが、その中にほのかに怒りのようなものが混ざった気がする。
 返事をしないシャマンに、中村もわずかにうっすら苛立ちのようなものをにじませた。


 シャマンたちの様子が気になった大地に対し、中村はパッと表情を明るくさせて揚々と語った。
「うちの大事な大地くんに何かあったら困るどころの騒ぎじゃなかったよ。シャマンは頼りがいのある男だ。これからも何か困ったことがあれば、
彼に助けてもらえばいい」
「はい!」
 今後はずっとシャマンの近くにいられる。
 また『うちの大事な大地くん』と言われたことも嬉しくて、大地は元気に返事をした。
 これからこのシャマンという男が傍にいてくれるなら、これ以上頼もしいことはないと感じた。

 そんな大地を、微笑みを絶やすことなく中村は見つめている。
 大地は姿勢を正して、改めて主人となる人に折り目正しく挨拶した。
「最初はご迷惑をお掛けするかもしれませんが、僕、精いっぱい働きます。何とぞよろしくお願いします!」
 勢い良くお辞儀をする大地を見て、中村はにこやかに応える。
「ああ、大地くんの働きには私たちも大いに期待しているところだ。こちらこそよろしく」
 大地は恐縮しながら微笑んで、明るく返事をした。
「はい!」


 シャマンはそんなふたりのやりとりを苦々しげな表情で見ていた。
 中村の正体を知らずに健気にがんばろうとしている大地がいたたまれなかった。

 少し慣れてきた様子の大地は、恥ずかしそうに中村に言う。
「この街って、色んなルールがあるんですね。僕、まだ良くわからなくて手間取っちゃって…」
「ここネオ芳町は独特な場所だ。街のことも仕事のことも、焦らずにゆっくり覚えていけばいいんだよ」
 中村は眉を八の字にして目を細め、大地の頭を撫でた。
 大地は嬉しそうに肩をすくめて笑っている。

 シャマンはこのまま何も知らない大地が中村屋で男どもの欲望にさらされてしまうと思うと、胸が鋭く痛んだ。
 孤児院で育った大地を手なずけようとする、中村の狡猾な態度も気に障った。


 中村は大地の肩を抱いて言った。
「じゃあ、先に寮へ行って荷物を置いてから、その後仕事の説明に入ることにしようか」
「はい!」
 大地は希望と意欲に輝く瞳で、中村を見上げてうなずいた。
 シャマンは拳を固く握りしめ、歩き出すふたりの後ろ姿を見つめた。

「シャマン」
 中村はふと立ち止まって、そのまま背中越しに呼び掛けた。
 その声は大きく、また威圧感があり、大地は思わず身をびくりと震わせた。
 そして少しだけ振り向いた中村は、攻撃的な声音で続けた。
「どうした、ボーッと突っ立って。お前も一緒に来い」


 中村はシャマンの気持ちに気づいていた。
 騙された大地を憐れみ、そんな大地を今から食いものにしようとしている自分を責めるシャマンの気持ちに。

 シャマンが自分に反抗的なのは今に始まったことではない。
 中村とシャマンの間には、一言では語れない深い深い因縁があった。
 ヤツが自分にたてつくのは明確な理由がある。
 だが今日のこの日まで、中村屋という場所で自分がシャマンを世話してやったことも事実。
 どう思われようと知ったこっちゃないというのが中村の彼に対する考えであった。


 自分に対するものとまったく違う態度を見せる中村に大地は驚いていた。
 それに、シャマンも中村に対して何か思うところがあるらしく、お世辞にも仲が良さそうには見えなかった。
(何かあったのかな、このふたり…)
 大地がそう思いふとシャマンを見ると、目が合った。
 厳しい中に、なんとも言えない哀れさを宿した瞳で、彼も大地を見つめていた。

(シャマンさん…?)
 どうしたのだろうか。
 自分は彼と同じ場所で働けると知ってすごく嬉しいのに、シャマンは表情を曇らせている。
 シャマンの憂いの理由がわからない大地は少し困惑していた。


 中村はシャマンと視線を合わせている大地の肩を抱き直し、再び店へと歩き始めた。
 半ば強引に促され、大地は仕方なく中村と歩を進めた。
 しかしシャマンが気になってもう一度振り返ると、俯いてじっとその場に立ちつくしていた。