百華煉獄22
「っ…おえぇっ、ぅぐ、…!げぇぇ…!!」
 大地は洋式トイレの便座に顔を向けて激しく嘔吐していた。


 小泉の座敷から出て、大地が吐く寸前だということに気づいたシャマンは茶屋の従業員スペースにあるトイレに連れていった。
 入るやいなや、大地は個室に駆け込んだ。
 そこで膝をついて便座に向かい、胃の中のものを吐き出した。

「うぅ、っ…うええっ」
 朝に孤児院で子どもたちと食べた食事がすべて出てしまった。
 それでもまだ吐き気が治まらなかった。


 お尻に指を挿れられる検査。
 小泉にさせられたこと、されたこと。
 拓海がしていたことを、今後ここで自分が仕事として行わなければならないこと。
 そしてきっと、初めての客があの小泉であること。


 ここでの衝撃的なできごとの連続とこれからの大きな不安が頭の中をぐるぐる回り始め、それとシンクロするように猛烈なめまいに襲われる。
「……っ…」
 おそるおそる、小泉に無理矢理ペニスを握らされた左手を見てみる。
 小泉自身から溢れてきたなんだかわからない液体がまだ掌に残っていて、てらりと光っていた。
 すさまじい不快感と嫌悪で手の震えがさらにひどくなる。

 また触られた菊門にも、小泉の指の感触が生々しく残っていた。
 もう触れられてはいないのに今でもいやらしくなぞり上げてくる感覚があった。

「っ!…うええっ、げぇっ」
 吐くものなどないのに、気分がどうしようもなく悪くて猛烈な嘔吐感がこみ上げてくる。
 涎や涙で大地の顔はぐしゃぐしゃだった。


「……」
 そんな大地をシャマンは背後から黙って見守っていた。
 すべてを知って大きなショックを受け、錯乱している大地が心配だった。
 あまりのことに身体が拒絶反応を起こしている姿を見ると、シャマンも苦しかった。

「うぅ、ふっ…く…!」
 症状が治まってからも、トイレには水を流す音と、大地の嗚咽だけが響いていた。



 少し落ち着いてきたので、大地はシャマンに勧められるまま寮の自分の部屋に向かった。
 手や口は綺麗に洗ってきたが、大地の頬にはまだとめどなく涙が伝い落ちていた。
 目の焦点はあまり合っておらず、足取りがおぼつかずにふらふらしている。
 憔悴している大地を支えながらシャマンは特に何も言わず廊下を進んだ。



「少し横になっていろ」
 部屋に入りながらシャマンが声を掛けると、大地は何も言わずに後に続いた。


 その途端突然襖が開いて、中村が入ってきた。
「お前ら…どこに行ったのかと思ったらここにいたのか」
 その声を聞いて、それまで意識がどこかに吹き飛んでいるようだった大地の肩が、びくりと揺れた。
 そして背後に立つ中村を大きな瞳で見上げる。
 その目は怖れと怯えで大きく揺れていた。

 中村はそんな大地を一瞥し、押し入れから布団を取り出しているシャマンに口を開いた。
「お前が余計なことをしでかしてくれたおかげで、小泉様から大地の分の代金をもらいそびれてしまったぞ」
 ちっ、と舌打ちしてシャマンを睨む。
「座敷から出ていく時もろくに頭も下げずさっさと出ていきおって…慌てて私がフォローしたから良かったものの」

 シャマンは座敷から出ていく時、中村が自ら『大地の分のお代金はいただきませんので』と、ゴマをするような口調でこの件の穏便な収拾を
小泉に乞うているのを聞いていた。
 代金の支払いをしぶるようなことは、別段小泉自身が怒って言い出したわけではない。


 だがシャマンは無視して、布団を敷き始めた。
 そんなシャマンを忌々しげな瞳で見つめながら中村は言った。
「無礼三昧しおって…中村屋が今まで築き上げてきた小泉様との信頼関係を崩すところだったぞ。大地がなついているからちょっとは
リラックスするかとお前を連れていったのは失敗だったな。小泉様からもらい損ねた代金は、お前の給料からしっかり差し引かせてもらうぞ」

 最後の一言を聞くとシャマンはぴくりと反応して中村を見返した。
 何も言い返さないものの、明らかに不満の色を孕んだ切れ長の瞳は異様な迫力をもって中村に向けられる。
 しかし中村はシャマンの反抗に慣れっこであったので、彼と同じく睨み返した。
「こういう陰間茶屋は信用第一、その上クチコミがいかにものを言うかお前も知っているだろう。ことは小泉様だけにとどまらず、他の
VIP客の客足に影響を及ぼすかもしれないのだ。もう二度とあのようなことはするんじゃないぞ」
 生意気な教育係に厳しく言い伝えて、目の前で自分を見上げ、立ちつくしている大地に視線を向けた。


 大地は小さく震えながら、中村を見つめ続けている。
 涙をいっぱいに溜めている瞳には、働くことの喜びと希望すべてを託し、心の拠りどころにしていた中村に対する不信感がありありと浮かんでいた。
 また想像を絶するあまり、自分が置かれる状況に対しても思考が追いつかずにパニックになっているようだった。


 そんな大地を気遣い、シャマンは小さな肩に手を置いて背後から声を掛けた。
「さぁ、布団が敷けたぞ。横になれ」
 大地はそう言われても動こうとせず、中村をじっと見つめるだけだった。

 中村は大地を見下ろしながらゆっくりと口を開いた。
「…大地。仕事の話だが」
 大地は身を強張らせた。
「ここでお前に与えられた仕事というのは、今見学してもらった通り、陰間と言って男性客に身体を売るというものだ。さっきの拓海…
現在うちの指名トップの陰間だが、あいつがやっていたようなことを今後お前にもしてもらう」


 大地の視界が揺らいだ。
 足元の力が抜けていく。

 ずっと延ばし延ばしにされた答え。
 座敷で知ったとは言え、改めて中村の口から告げられると、この上なく大地の心を打ちのめした。


 ふら…と身体が大きく揺れたところを、慌ててシャマンが支えた。
 青ざめていく大地の顔を見て、シャマンは支えたままゆっくりと布団の上に座らせた。

 中村は大地が激しく動揺しているのを見てもそのまま説明を続けた。
「ここ中村屋は、茶屋と言っても陰間茶屋だ。どういうものかと言うと、お前ぐらいの年の男の子を大勢所属させ、お客様に性的なサービスを行う場所さ」


 陰間茶屋。
 そんなものが存在することを初めて知った。
 今見たようないかがわしいことを行うための茶屋など、子どもの大地が知るはずもなかった。