「………」
大地は中村が出ていった襖の方を向いてじっとしていた。
茫然自失と言った様子で、動けないようだった。
シャマンはそんな大地の後ろ姿を見つめていた。
もともと小柄なこともあり、儚く消えてなくなりそうな気がした。
「…さぁ、大地。布団に横になれ」
シャマンは大地の正面に回り、肩に手を掛けた。
大地はぼぅっとした目で誘導されるまま布団に移動していたが、急にハッとしたようにシャマンに尋ねた。
「シャマンさん、今電話持ってる?」
「ぁ…?ああ、持ってるが…」
「貸してもらっていいかな、今すぐ掛けたいところがあるんだ」
様々なショックで視線も定まらなかった大地が突然しっかりとした口調で願い出たので、シャマンは少し驚いていた。
大地が電話を掛けたいところというのは、きっと自分がいた孤児院だろう。
シャマンは着流しの袖の中からスマートフォンを取り出し、大地に渡した。
「…お前が聞きたくない言葉を聞くはめになるかもしれんぞ」
「…わかってる」
大地はぐっと口唇を噛みしめた。
大地は確かめたかった。
自分が置かれているこの状況に至る経緯を、中村だけではなく橋本の口から聞きたかった。
賭けごとが好きだなどと言っていたが、橋本のそんな側面を大地はまったく知らない。
自分の知っている橋本は、穏やかで柔和な、少し気の弱いところのある優しい『父親』に他ならなかった。
だが一方で、橋本と中村の間に何かおかしな取り決めがあったことは否めない。
中村はライタやカイトの名前、そして年齢を知っていた。
大地の感じた違和感。
橋本が何も知らずに大地を中村屋に引き渡すとも思えない。
中村が言うほど橋本が悪い人間ではないと思いたかったが、こうなった今、それはなんとも言えなかった。
大地が今置かれている状況は、中村の言葉だけで納得するなど到底できないものだった。
シャマンの言う通り、聞きたくない言葉を聞くことになるかもしれない。
が、橋本とこのことについて話さなければ、大地は気が済まなかった。
大地は涙を乱暴に袖で拭った。
そして意を決して『太陽』の電話番号をタッチした。
シャマンが見守る中、大地は布団の上に腰を下ろして、受話口から聞こえるプルルル…という呼び出し音を聞いていた。
身体が揺れるほど、心臓がドキドキしていた。
ほどなくして橋本が出た。
「はい、児童養護施設『太陽』、院長の橋本でございます」
その声はいつも通り穏やかな声で、大地は胸が苦しかった。
「…あ…大地です」
「っ、あ、ああ、大地か。無事に着いたのか?」
一瞬ハッとした様子だったが、穏やかな声のまま大地を気遣い尋ねてくる。
「はい…中村屋に無事着きました。中村さんとも会えました」
大地はなるべく多くのことを語らず、感情もあまり入れずに話した。
少し、間があった。
そして静かに橋本が口を開いた。
「…そうか。では、仕事内容の説明はすべて受けたんだな」
急に真剣味を帯びた口調に、橋本はやはりすべてわかっていたのだと大地は理解した。
この男は、ネオ芳町という特殊な街にある陰間茶屋で、陰間として身体を売るという仕事とわかっていて自分を中村屋に引き渡した。
そう思うと、自然に身体が小刻みに震え出した。
「…はい、すべて…」
やっとのことで返した言葉。
橋本は大地の声が沈んでいたため、慰めるように言った。
「…陰間という仕事はハードかもしれんが、その分他の仕事よりたくさん金が入るんだ。お前は早く働くことが夢だったんだろう?」
「……」
大地は黙って聞いていたが、その頬には拭ったはずの涙の筋が再び現れていた。
大地の沈黙が気になったものの、橋本は続けて話した。
「陰間茶屋が数えきれないほどあるネオ芳町の中でも、中村屋さんは最大手と言われているんだ。そんなところに所属できるなんて、
光栄なことだと思いなさい」
後ろめたい気持ちがないわけではない橋本は、無言の大地に自身が責められていると感じたらしく、自分の決断を正当化するような言葉を吐いた。
「だから、中村さんの下でいろいろ勉強して、陰間の仕事を立派に勤め上げるんだぞ。辛いこともあるかと思うが、離れていても父親の私が
近くで見守っていると思ってがんばるんだ。私も家族として応援しているから」
「…!!!」
『父親』。『家族』。
その言葉を橋本の口から聞くたびに、違和感と白々しさが増大する。
大地は涙でにじむ声で呼び掛けた。
「は…橋本、さん…」
「っ…」
大地は初めて橋本のことを父さんと呼ばなかった。
今となっては、もうそんな風には呼べなかった。
橋本は大地の気持ちの変化を感じて、受話口の向こうで黙り込んだ。
「ひとつだけ、お願いしていいですか?」
大地は静かに尋ねた。
橋本は何も答えず、大地の言葉を待っている。
「…この先どんなにお金に困っても、ライタやカイト…他の子どもたちを、誰ひとりこんな目に遭わさないって約束して下さい」
「……!!!」
橋本は自分の金の事情を大地が知っていることに仰天したようだった。
「中村さんから聞きました。橋本さんがオレと引き替えに大金をもらったことも、オレが逃げたらライタたちをここへ寄越すって言ってたことも」
「…ちっ、中村め、余計なことを…!」
「……」
橋本が忌々しげに放ったその一言は肯定に他ならなかった。
橋本の声を聞いてずっと苦しかった胸に、鋭い痛みが走る。
大地はその痛みをこらえながら、もう一度頼んだ。
「約束して下さい。ライタたち…子どもたちみんなを、二度と陰間茶屋に売り飛ばすようなことはしないって」
大地の真剣で強い想いが声音に表れていた。
その迫力に少し圧倒されながら、橋本は答えた。
「…あ、ああ…そりゃあ、お前がそこでちゃんと働くのならそんなことはしない」
大地は橋本の返事を聞いて、少しだけだがホッとした。
安心できるほどその言葉を信用したわけではないが、それでもまだ少し救われた気になれた。
「本当に、お願いします…じゃあ、これで…」
「っ…ああ、大地、ちょっと待て。金は…研修期間は給料が出ないらしいから、少しでも早くデビューしてくれよ」
電話を切りそうな大地を引き止めて橋本が伝えたかったのは金の無心だった。
「そうしてもらわないと、いつまでたってもこちらに金が入ってこないからな」
「……!!」
「金の振込みに関しては、中村さんと私とですべて決めてある。お前は何も気にせず、少しでも早く陰間としてデビューできるように
励みなさい。お前も今日別れ際に言ってたじゃないか。『働いて手にしたお金を家族に渡すのは当たり前のことだから』と」
橋本は施設に対する大地の純粋な想いを、自分の都合のいいようにすり替えようとしている。
大地はわなわなと震えた。
そんな大地の耳に、さらに追い打ちをかけるように橋本の声が響いた。
「とにかく早く売れっ子陰間になって、少しでも多くの金を私の元に届けてくれ。それがみなしごのお前を今日まで育ててきた、私に対しての
何よりの恩返しになるんだから」
「―――…!」
大地は、最後の最後まで恩を着せて自分を支配するつもりの橋本に対して、怒りと恐怖と、それ以上の失望を抱いた。
何度も胸に走る鋭い痛みに、これ以上耐えられそうにない。
大地は小さな声で言った。
「…もう、電話は掛けません。じゃあ」
「あ、待ちなさい大地、私はお前の父親として…」
「さようなら、橋本さん」
大地は何かを言い掛ける橋本の言葉を最後まで聞かず、電話を切った。