百華煉獄27
 大地はハッとして目を開いた。
 あたりが真っ暗だったので驚いたが、暗闇に目が慣れてくるとここが寮の自室なんだと気がついた。


(そうだ、ここ中村屋なんだ…オレあのまま寝ちゃったんだな…)
 うつ伏せの状態で布団に寝ていたようで、のそりと頭を持ち上げて周りを見渡してみる。

 知らぬ間に、窓外はとっぷりと日が暮れていた。
 中庭に備えられてある行燈風ライトのほのかな光が、風で揺れる木々の葉を優しく照らしているのが見える。
 ひっそりと静まり返っており、葉が互いに触れ合うさらさらという音しか聞こえない。
 初めての場所で慣れもなく、部屋が暗いのも手伝って大地は少々気味が悪かった。


 ゆっくりと立ち上がって、中庭からのわずかな光を頼りに部屋の電気を点けた。
 文机の時計を見るとちょうど四時を指している。
(え、四時?…夜中の!?いつの間に…!!)
 知らないうちにそんな時間になっていて大地は驚く。
 こんな時間に起きているのなんか生まれて初めてだった。


 顔が重たい。
 泣きながら寝ていたせいで目が腫れているような感覚がある。
 ふと布団に視線を移すと、ぎゅっと抱きしめていたであろう枕が涙で濡れているのが見えた。


 シャマンに言われた通り思う存分泣いた今、不思議とすっきりした気持ちになっていた。
 もちろん現状が何ひとつ変わったわけではない。これからのことを考えるとひどく憂鬱になる。
 だが、少し落ち着いた。
 とても悲しく、また理不尽に与えられた状況ではあるが、泣いたことで現実を受け止められる心構えができたような気がした。


 今初めて気づいたが、枕元にティッシュボックスが置かれてあった。
 布団はシャマンが敷いていた。
 もしかして、これも彼が用意してくれたのか。

 くす、と大地は笑った。
 無愛想なくせに面倒見がいいシャマンが可笑しかった。


「……」
 シャマンに想いを馳せてみる。
 広場でも小泉の座敷でも、大地がピンチの時に救ってくれた。
 シャマンがいなければ今頃どうなっていたのかわからない。
 大地にとってまるでヒーローみたいな人だと思った。
 そしてふと、シャマンのことを考える上で浮き上がってくる、不明な点に意識を移した。


 シャマンはどういった経緯を経てここ中村屋に勤めているのだろうか。

 彼を見ていると、どうも陰間茶屋…特に中村屋に対して反発心と言うか、反感と言うか、うまく言えないが何か思うところがあるように見える。
 騙されるようにしてここへ勤めるはめになった大地への同情、気遣いを見せるところからもそれを強く感じた。

 また経営者の中村とは、はっきり言って不仲にしか見えない。
 あらゆる場面でことごとく意見が対立していた。
 中村は自分に『“ご主人様”と呼べ』と命じたが、シャマンは彼のことをそのように呼んでいただろうか。
 何か言われても返事をしないことが多かったし、へりくだるどころか経営者に対する口のきき方をしていなかったと記憶している。


 教育係という立ち場にいると言っていた。
 座敷での大地はパニックに次ぐパニックだったため、はっきりとした言葉は覚えていないが、シャマンは『わたくしどもが見習いに指導して
陰間にする』というようなことを話していた気がする。

 陰間茶屋に対して不穏な何かを抱いているシャマンが、何故陰間を育成する立ち場に就いているのだろうか。
 それも険悪な仲のオーナーが経営するここ中村屋で。


 そして、シャマンは何故、ネオ芳町にいるのだろう。
 いくら陰間茶屋に勤めていると言っても陰間ではないのだから、この街から出られないということはないのだ。
 何故ずっとこの街にいるのだろう。


 先ほどは自分のことで精いっぱいだったのだが、よくよく考えるといくつも不思議な点が浮かび上がる。
 何故。
 何故。
 シャマンのことを考えると謎ばかりで、頭に次々とその言葉が押し寄せてくる。


(シャマンさんはなんでここに…)
 考え込んでいると、突然お腹がぐ〜〜〜〜〜っ…という大きな音を立てた。

 そう言えば、と思い出す。
 大地は昨日の朝、施設でごはんを食べた以外何も口にしていなかった。
 その上その朝ごはんは気分が悪くなってすべて吐き出している。
 あの時はショッキングなできごとの連続に、お腹がすいた感覚自体が抜け落ちてしまっていた。
(変なの。あんなことがあってもお腹はすくんだ)
 大地は人間の本能ってすごいなァと、まるで他人ごとのように感心していた。

 きゅるるる…とまたしてもお腹が鳴った。
「ぁ〜…お腹すいた…」
 消え入りそうな声で大地はひとりごちた。
 忘れていた空腹感をいったん覚えてしまうと、途端に口にできるものが恋しくなる。


(食べるものなんて何も持って来てなかったよなァ…お腹もすいたけど喉も乾いてるし、アメでもいいんだけど…あったかな)
 部屋の隅にある孤児院から持ってきたバッグを傍に引っ張ってきて、ジッパーを開いた。

「っ…」
 大地はバッグの中のあるものが目に飛び込んできて息を飲んだ。


 それは、橋本と『太陽』の子どもたち全員で撮影した写真だった。
 写真立てに入れてあるそれを、大地は孤児院を出るぎりぎりまで慈しむように眺めていた。
 そうしているうちに時間がなくなり慌ててバッグに詰めたため、一番上にあったのだ。

 写真の中のみんなは施設の庭で仲良さそうに笑っている。
 全員が満面の笑顔だった。
 写真撮影などめったに行わなかったため、珍しがってみんながとてもはしゃいでいたことを覚えている。


 これを撮影したのは今から四ヶ月ほど前になるだろうか。
 みんな成長期だから、四ヶ月前と言えども今と比べると幼く感じた。
 特にカイトなどはこんなに小さかったのかと驚きを覚えるほど、ふにゃふにゃと頼りなげだった。

 写真の中では、大地はそんな年少の子どもたちの後ろに並んでいた。
 その隣には院長の橋本がいて、みんなと同じように楽し気に微笑んでいる。
「………」
 その顔を見ると、胸がどんよりと重くなる。
 それと同時にムカムカとした強い不快感が生じた。


 自分がここにいるのはこの男のせいなのだ。
 親と慕って信頼していたのに、金欲しさに自分をこんなひどい場所に売りつけた。

 大地はすぐに写真立てから写真を取り出し、橋本の部分をちぎり捨てた。
 橋本とは昨日の電話を最後に、もう金輪際関わり合いになりたくなかった。
 そう思ったところで、借金の肩代わりをしなくてはならないため完全に関係を絶つことなど不可能だとはわかっている。
 だが、存在を感じたくなかった。
 今後一切顔も見たくないし声も聞きたくない。
 大地は自身の中から彼を感じるものすべてを排除してしまいたかった。


 この写真は撮影した次の日からさっそく孤児院の食堂に飾られていた。
 みんなと離れても寂しくないようにとこっそり持ってきたものだ。
 いびつにちぎられた写真を、もう一度写真立てに入れ直す。
 そして、子どもたちひとりひとりの顔を、順番に指でなぞった。

 四ヶ月前と今でこんなに違うんだ。
 じゃあ半年後は、一年後は?
 彼らはどんな風に育ち、どんな大人になっていくのだろう。


(でも…もうこいつらには逢えないんだな…)
 今後この子たちの成長ぶりをこの目で見ることはもうないのだと思うと、胸にぽかんと大きな穴が開いたような、空虚な気分になった。