「……?」
気づけば大地は柔らかい布団の上に寝ていた。
「お、気がついたか?」
心配そうに覗き込んでくるのはミナトで、彼の頭上や視界に広がる景色から、ここは彼の部屋に違いなかった。
「オ、オレ…」
「あ、無理して起き上がんなくていいぜ。廊下で話してたら倒れちまったから、オレの部屋まで運んだんだ」
「え…ミナトひとりで?」
制止も聞かず、大地は布団の上に座りながら驚きの声を上げた。
「おう、お前ひとりぐらいへっちゃらさ。この筋肉も伊達じゃないんだぜ?」
ミナトはニッと笑って自慢気に腕を曲げ、筋肉を誇示してみせた。
「あっ、それと飯…」
ミナトはそう言いながら定食のセットが乗っているお膳を背後から手前に滑らせて、大地の前に差し出した。
「これ、食堂からもらってきたから。食欲あるかないかわかんないけど食えそうなら食えよ」
ミナトは大地を部屋まで運んだ後、布団を敷いてそこへ寝かせ、その間に昼食を持ってきたのだ。
お膳ふたり分だったから、きっと二度往復してくれたのだろう。
食欲はいまいちなかったものの、またミナトの世話になって大地は布団の上で頭を下げた。
「ミナト…ありがとう」
「…だからァ、まともに礼言われるの苦手なんだって。よしてくれよ〜」
身をくねらせて顔を赤らめるミナトを見て、大地は小さく笑った。
今の時間が気になって大地は時計を探す。
昨日あった目覚まし時計がどこにいったかわからずに視線を彷徨わせていると、それに気づいたミナトが答えてくれた。
「今は十二時を十分ぐらい過ぎたとこさ。まだ休憩時間はたっぷり残ってるからゆっくりできる。心配すんな」
気を失っていたのは十五分ぐらいのものだったのか。
午後の授業までまだ時間があるのと、スケジュールが押してミナトにこれ以上迷惑をかけたくなかった大地はひと安心した。
ミナトが小さなテーブルを押し入れから出してきてくれたので、そこにお皿類を置いてふたりは昼食を食べ始めた。
ふたくち、みくち、どちらもしゃべらずにごはんを口に運んでいると、ミナトが妙に改まった雰囲気で話し掛けてきた。
「あ…あのさ、大地」
「…?」
いつも快活なミナトなのに、曇った表情で目をそらしながら次の言葉を言い淀んでいる。
しばらく迷っているようだったが、やがて意を決したように声のトーンを低くして尋ねてきた。
「あの…もしかしてクロマサに最後まで…犯されたのか…?」
「っ!!!!」
大地は青ざめた顔でビクリと肩を揺らせた。
脳裏には、クロマサが最後に言い訳をしながら挿入の体勢に入ろうとのしかかってくる様子がまざまざと浮かびあがってくる。
「…言いにくいことかもしれないけど、もしそうならオレ黙っておくから…」
大地の怯え方がただごとではなかったので、ミナトは痛々しげな顔で声を掛ける。
ミナトは大地の今後を気遣って、もしもクロマサに強姦されてしまったのなら絶対内緒にしておこうと決めていた。
ただし中村がこの事実をどこまで知っているか不明で、もしそうだとすると大地はここにいられなくなってしまう。
固唾を飲んでミナトは大地の返事を待った。
大地はミナトの質問の否定とクロマサの残像を振り払おうと、首をぶんぶんと勢い良く振った。
「そ、そうか、良かった!!」
ミナトは大地がレイプの被害に遭わずに心底ホッとしている様子だった。
このまま陰間としてちゃんとデビューできることもそうだが、大地がここを去ることにならずに済んだことも同じぐらい嬉しいようだった。
「しかし、よく助かったな」
「ご、ご主人様がたまたま実技研修室にあいつを呼びに来て…」
「そうだったのか…ホント良かった…!!」
ミナトの眉毛は八の字を描いていた。そして安心して胸を撫で下ろしていた。
『他の教育係や見習いどもの誰にも言うんじゃねェぞ』と耳元で脅された大地は、それ以上何も話さないでおこうと決めていた。
クロマサがそう言うのは、大地から話が広まって自分の立ち場をこの中村屋で危ういものにしたくないということがきっと大きいのであろう。
だが、事実を知ってしまったミナトがもしかしたらあいつに危害を加えられるかもしれないと思い、何も知らない方がいいと判断したのだ。
大地の被害状況をずっと懸念していたミナトは、犯されてはいないもののクロマサとふたりきりだったという状況や大地の反応から、過剰なセクハラを
受けたであろうことは間違いないと感じた。
性的な知識や経験がほぼない子どもが、あんな下衆な男とふたりきりの空間で無理矢理いやらしいことをされたのだ。
その気持ちをおもんぱかってミナトは静かに口を開いた。
「あいつ、お前の身体を触り放題、好き勝手してきたろう」
それを聞いて大地が身を強張らせたのを見て、ミナトはやっぱりといった顔で悔しげに舌打ちした。
「あの男…普段から見習いに対するセクハラがひどいって有名な野郎さ」
箸を持つ手を震わせて俯く大地に、ミナトがぽつりと呟く。
「…オレの尺八の実技、あいつが担当だったんだ」
「えっ」
思わず声を上げて、大地はミナトを見た。
「クロマサの野郎…尺八の練習だってのに、キスはするわ、着物脱がしてすっ裸にさせるわ、ケツは揉みまくるわで目的外の関係ないことばっか
してきやがった。あんまりムカついたから、とっとと終わらせてやれってんでオレの舌技で即昇天させてやったよ」
「……」
ミナトも被害者のひとりだったのか。
大地と同世代の少年をそういった対象でしか見ない歪んだ性癖の男。
オレたちをなんだと思っているのだろう。大地は胸が悪くなった。
忌々しげに説明した後ミナトは大地の目の前でしゅん、とうなだれた。
「オレ、昨日本当は大地に、先にクロマサのそういう下衆なとこ教えておこうかって思ったんだ。でも逆に怖がらせるだけかもって、何も言えなかった。
ごめんな」
昨晩も今朝も、大地の実技研修の相手がクロマサだという話になった時、ミナトは何か言いたげだった。
今思えばあれはそういうことだったのか。
ミナトの言う通り、事前に被害を被った者の話を聞いてしまえば、さらに不安が募っていたと思う。
それに聞いたところで回避はできなかっただろう。
大地はミナトに微笑んで首を振った。
「謝らないでよ。ミナトの言う通りだと思うよ。いろいろ気を遣ってもらってありがとう」
普段の様子に戻りつつある大地にミナトは安堵しつつ照れていた。
箸を再度持ち直してふたりは食事を再開した。
ミナトは『そう言えば』と、思い出したような顔をした。
「クロマサの話が出たついでに、あの男も要注意だが、角刈りのアカベコって名前の野郎もクロマサとどっこいどっこいの下衆野郎だぜ。見習いの
間じゃァ組みたくない実技相手ってことで、クロマサと一、二を争ってるって話さ」
大地はゾッとした。
初日の身体検査時と、昨日見かけたアカベコの実技研修の様子。
それはミナトの話通り、クロマサとほぼ同じような下劣さを持つ印象だった。
そのような男がふたりもいることを思うと、背筋に冷たいものがぞくりぞくりと何度も走るのを感じた。
「あいつらに限らず、実技の教育係なんて見てればどいつもこいつも似たようなもんさ。少年愛好趣味が高じて、子どもを好きなように撫で回せるってんで
こういう仕事に就いてるんだから。なんでもこの中村屋じゃァ、募集もしてねェのに教育係になりたいって応募の問い合わせが引きも切らねェらしいぜ」
アホくせ、といった様子でアジフライを咀嚼するミナトの言葉で、大地の脳裏に自然とひとりの男の顔が浮かんできた。
説明に合わせて箸を指揮棒のように振り回していたミナトは、自身の発言に、あ、というような表情をして続けた。
「シャマンさんはどうかわかんねぇけど…」
ミナトは大地がシャマンに憧れていることに勘づいていたので、シャマンをもクロマサと同じ人種だというような物言いをしてしまったことに気がついた。
そしてヤバかったかなァというように、チラリと視線を寄越して大地の顔色を窺った。
大地は何も言わず黙って考え込んでいた。
ミナトの言うように、大地だってそのことはずっと気になっていたのだ。
シャマン。
ぶっきらぼうなのに陰間見習いに優しく、経営者の中村や同じ教育係たちと反目しているようではあるが、その実、見習いの子どもたちを陰間デビューに
導く仕事に就いているのである。
それも実習を含めた研修制度はシャマンが発案者だと言うではないか。
子どもながら、ものすごく矛盾している行動だと大地は思っていた。
ただ、彼をクロマサたちと同種の人間だとひとくくりにしてしまうのは絶対に間違いだと思えた。
彼は他の教育係と違い、子どもを性的に好んでいるわけではない。
大地はここに来てからずっと、シャマンと接したすべてのことがらから彼は少年愛者とは絶対に違うと確信していた。
では、何故。
何故シャマンはここにいるのか。
何故ここにいて、陰間の卵を育成する立ち場にいるのであろうか。
幾度もシャマンに対し抱いた『何故』という想い。
その最たるものがこれであった。
この部分にシャマンの秘密を解く鍵があるような気がする。
知りたい。シャマンのことをもっと。
シャマンの謎を解き明かして、彼に関するすべてのことが知りたい。
しかしどんなに渇望しても、大地には知る術がなかった。