百華煉獄5
 大地はライタやカイトたちとバスケを楽しんでいたが、院長室の窓から橋本が自分に手招きをしているのに気づいた。

「?」
 橋本の背後には先ほどの男のシルエットが黒く浮かんでいる。
 そんなところに自分を呼び寄せていったいどうするつもりなんだろう、と不可解だった。
「あーッ!ゲームが途中になんだろ、まだ勝負ついてないのに!」
「大地ニイがいないとこっちのチーム負けちゃうよ〜」
 不満そうなライタとカイトをどうにかなだめて、大地は呼ばれるまま院長室へ向かった。


 部屋に入るとやはり黒スーツの男がいて、そのまま紹介された。
「大地、この方は中村さんだ」
 中村と言われてもその正体がよくわからない。
 だが、中村は腕を伸ばして大地に握手を求めてきたので、そのまま従った。

「私は中村屋という名前の茶屋を経営している者だ。大地くんだね。よろしく」
 中村はにこやかに挨拶をしながら、大地を商品としてじっくりと観察した。その目は品定めに入り、大地を値踏みしていた。


 大地は中村の職業は理解したものの、そんな人と自分を引き合わせてどうするつもりか、橋本の真意を掴めないでいた。
 そう思っている時に橋本が放った一言に、大地は心底驚かされた。
「大地、この中村さんのところで働かないか?」
「…!!!」
 思わず中村を見ると、彼は細い目をさらに細めてにっこりと大地に微笑みかけた。

「私の店は江戸のとある街にあってね、そこの従業員として君を雇いたいという申し出を、今橋本さんにしていたところなんだよ」
「ほ、本当に?」
 早く働いてお金を稼ぎたかった大地は、キラキラとした瞳で中村を見上げている。
「ああ、君さえ良ければ是非来てもらいたいと思っている。うちには従業員専用の寮があるから、君にはここを出てその寮に入ってもらう。
まァまだまだ君も子どもだから、食べることや寝ること以外にも生活面はすべてこちらが面倒見る。どうだい?」
 この手厚い待遇はどうだと言わんばかりに、中村は自信ありげに大地の肩に手を掛けた。


 大地からすれば願ったり叶ったりな話だった。
 元気よく深々と頭を下げる。
「ありがとうございます!是非働かせて下さい!!」
 中村はうんうん、とにこやかにうなずいて言った。
「本当に礼儀正しく育てられて…素晴らしい。橋本さんの教育の賜物だな」
 橋本はそれを受けてははは、と小さく笑った。
 成功者中村への引け目と、大地に対する罪の意識。
 笑うことでどうにかそれを誤魔化そうとしたので口元が不自然にひきつったが、働き口ができた喜びでほくほくしている大地はいっさい
気づかなかった。


「研修期間はあるが、この様子なら早く店に出てもらえるかもしれんなァ?」
 軽くからかう様子で中村が笑い掛けるので、大地は少し照れながら答える。
「が、がんばります!」
 意気を揚げて元気良く答えた大地だったが、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「茶屋の従業員ってことですけど…具体的に僕はどういうお仕事をすることになるんですか?」
 橋本はそれを聞いて、ぐ、と身体を強張らせた。
 大地は中村を見つめているので先ほどと同じく気づいていないが、中村にはその動揺が伝わっていた。

 だが中村は平然と言い放った。
「君には茶屋でお客様相手に接客をしてもらうんだよ」
「接客…」
 大地は一瞬視線を宙に移し、ほんの少し考えた後、再び尋ねた。
「ウェイターさんってこと?」
 それを聞いていたたまれなくなった橋本は、唾を飲み込んで自身の何かを振り切るように勢い込んで言った。
「そ、そういった仕事の内容に関しては、おいおい…な?中村さんのところへ行ってから、ゆっくり教えてもらえばいいじゃないか」
 突然会話に入ってきた橋本にその時初めて違和感を抱いた大地だったが、どうしたんだろう、と軽く思う程度だった。


 茶屋と言っても陰間茶屋という特殊なところで、客に性的なサービスを行うのがお前の仕事だ。
 などということは、橋本も中村も、大地がこの施設を去る前に伝えるつもりはいっさいなかった。
 そんなことをすれば、混乱して逃げ出すか、精いっぱい抵抗して大騒ぎするに決まっている。

 中村にとってはせっかく見つけた売り物になりそうな子ども。それをみすみす手元から放すつもりなどない。
 こういうことは基本的に本人に何も言わないか、嘘をついて騙して連れてくることが当たり前の世界だった。


 大地は橋本の様子に少し驚きつつ、返事をした。
「…はい」
 すると中村が思い出したように口を開いた。
「ああ橋本さん、大地くんをこちらに引き取るのはいつにしようか」
「ああ…そうですね、いつに…」
「うちは一日でも早く来てもらって研修を受けさせたいんだが」
「じゃあ近々…日はいつに…」
 ふたりがカレンダーを見ながらそう相談し始めるのを見て、大地はハッとなった。

 一日でも早く働きたい。
 働いて少しでも多くお金を稼いで、この孤児院に役立ててもらいたい。
 ずっとそう思い続けてきたのだが、そのためには自分がここを去らねばならないことが寂しさを伴うものとして、急激に大地の中で大きく
なってくる。

 この『太陽』は大地の家だ。
 十年以上、ずっと暮らしてきた我が家を去る。
 それは、家族同然の他の孤児たちと別れねばならないという意味だ。
 みんなの顔が次々と浮かんできて、胸の奥がきゅう…とつままれたように痛んだ。


 そんな大地に、橋本と日取りを決めていた中村が視線を移して尋ねてきた。
「大地くん、急な話だけど明日はどうだい?」
「あ、明日ですか?」
 別れの寂しさに想いを馳せ始めていたところだったため、あまりにも性急な気がして動揺を隠せなかった。
「ああ、大地くんにしたら今聞いたばかりの話で突然過ぎるかもしれないが、私の仕事の都合で明日なら君を迎える対応ができそうなんだ。
それ以降はなかなかまとまった時間が取れそうになくてね」
「………」

 大地は戸惑った。
 早く働きたいが、ここをそうあっさり出ていけるほど、心の整理がついていない。


 そんな大地に今度は橋本が声を掛ける。
「長年住んだここを離れるのは、寂しいし不安だと思うよ。でも中村さんはものすごく多忙な方なんだ。最初からお世話になる方の
ご迷惑になってもいけない、明日でいいだろう?」
 続いて、中村はたたみかけるように言った。
「こっちの受け入れ準備は、今から帰ってすぐに従業員に指示しておくよ。ここの子たちとは離れてしまうが、うちにも君と同じ年代の子が
たくさんいる。新しい家族を見つけるつもりで来なさい。もちろん、私のことも大いに頼ってもらいたい」
 中村の掌が、大地の小さな背中をとん、と叩く。
 その手は躊躇する大地の心を見透かして、承諾することを急かすように感じた。


 今までここを出ていった年上の子どもたちは、頻繁ではないものの年に数回この『太陽』へ顔を見せていた。
 仕事が多忙で、まだ下働きだから簡単には奉公先の主人から外出許可が出ないんだ、だからなかなか帰れなくてごめんな、と皆苦笑していた。
 だが、それでもそうして元気な顔を見せに来てくれるのは、いつもとても嬉しかった。

 大地だって、中村の店に勤め始めたからといって、ここへ二度と帰って来られなくなるわけではない。
 そんな暇などないかもしれないが、申し出ればどうにかみんなに会いに来られるだろう。

 大地はそう思いなおして、戸惑いを捨てた。
「はい。では明日から、よろしくお願いします」
 中村の目を見てきっぱりと言いきり、深々と頭を下げた。


 中村も橋本も、その様子を見て目を細めた。
 そして大地が見ていない隙に目を合わせ、ふたりは笑みを浮かべた。
 それはそれぞれの欲望を孕んだ、醜悪でいかがわしいものだった。