翌日早々に荷物をまとめて中村屋に出向くことを約束して、大地は院長室からひとり出ていった。
先ほど行っていたバスケットボールのゲームはどうやら終わってしまったらしく、庭からはもう子どもたちの声がしなくなっていた。
そのかわり、食堂に集まってワイワイガヤガヤ、テレビを見たり宿題をしたり、おのおの自由に過ごしていた。
「あ、大地ニイが帰ってきた!」
ライタが大地を見掛けて声を上げた。
「さっきのゲーム、やっぱしオレのチームの勝ちだったんだぜー!」
エヘン、と得意気に両手を腰に当ててふんぞり返るその隣に、タタタ…と軽い足音を響かせながら今度はカイトが駆け寄ってきた。
「も〜、大地ニイがいなくなっちゃうから負けちゃったじゃないかー!!僕とルイはまだ二年生なんだよ、四年生ばっかのライタチームが
勝つのなんて当たり前だよっ」
カイトは大地にまとわりつきながらライタを睨む。
「だから途中からお前らふたりにオレひとりっていう、二対一のハンデやったんじゃねーか。こっちはひとりだぞ、そっちのチームを
断然有利にしてやってんだろーが」
「そんなこと言ったって、ライタの方が背が高いし、足だってライタが速いし、不公平だよー!」
「な〜にが不公平だか。口ばっかいっちょ前になりやがって」
くやしさ爆発でキキキー!!とわめくカイトを尻目に、腕組み態勢になったライタは本気で相手にせず、フッと馬鹿にしたように笑っている。
大地は明日、ここを去る。
さっきみたいな子どもたちみんなでの遊び、それに恒例と言ってもいい頻繁に起こるケンカ。
こんな風に毎日当たり前に繰り広げられてきたにぎやかな光景は、明日からの自分とは無縁のものになってしまう。
そう思うと大地は鼻の奥がツンとした。
何も知らないライタとカイトがいつも通りケンカしていることが無邪気過ぎて、泣いてしまいそうだった。
「こーんなチビに勝っても嬉しくねーし。明日はきっちり決着つけような、大地ニイ」
ニカッと笑うライタがイキイキとした瞳で見上げてくる。
明日。
ライタが決着をつけたい勝負は、もう、きっと。
大地は涙をこらえるのが精いっぱいだったが、どうにか我慢してライタに答えた。
「…ああ。お前にゃ悪いけど、ま、オレが勝つことになるよ」
「へっ、言ってくれるぜ!」
ライタは大地の肩に軽くパンチして笑った。
「じゃあ僕も勝つってことだね!」
カイトが嬉しそうに笑って大地の手を握る。
あったかくて柔らかい、小さな手。
大地はきゅっと握り返した。
「なんだよー、大地ニイと同じチームになるから、勝ったって単におこぼれってだけだろー」
「そんなこと言ったって、勝ちは勝ちだい!僕が大地ニイのプレイのアシストするもんね〜」
「アシはアシでも、そういうのは足手まといっつーの。それに明日はオレが勝つ!」
「なんだと〜!」
また小さな悶着を起こしているライタとカイトの頭に、大地はそっと手を伸ばして優しく撫でた。
ライタはドキリと驚いた様子を見せ、頭を振りかぶった。
「…っ、ガキ扱いすんなよっ!」
大地にそんなことをされたのは初めてで、恥ずかしくて暴れるライタと、純粋に嬉しくて瞳をキラキラさせ大地を見上げるカイト。
大地はそんなふたりが愛しくて愛しくてたまらなかった。
しばらくふたりを見つめた後、ふわりと優しく笑って言った。
「…おなか減ったろ。食事の準備、しに行くぞ」
すっと踵を返して厨房へ向かう大地の後ろ姿を見ながら、ライタがひとり呟いた。
「…大地ニイ…?なんか…ちょっと変、かも…」
「え?どこが?」
カイトが耳ざとく聞いていたらしく尋ねてくる。
「どこって…ちょっと元気ないっていうか…」
「でもさっきゲームしてる時は元気だったよ?」
カイトの言葉に、そういやそうだったな、と思い返す。
院長室から帰って来てからだよな?とひとり考えていると、カイトが自分の頭に両手を乗せて、ニコーッと笑顔を浮かべた。
「さっき大地ニイに頭くりくり〜ってされた時、すごい気持ち良かった〜!」
くふふふ、と頬を赤らめるカイトは、とても幸せそうだった。
「ライタも気持ち良かったでしょ?」
当然のように同意を求めてくるカイトに、ライタは顔を真っ赤にさせた。
「何言ってんだよ、オレはお前みてーにガキじゃねーからそんな風には…!」
カイトはそんなライタを気にする様子もなく、夢心地のような表情で言った。
「僕、あんな風に頭撫でられたことなんかなくて、ずっと憧れてたんだ。だから、してくれたのが大好きな大地ニイで、とっても嬉しかったァ」
大地のくれたあたたかさを放すまいと、カイトは頭に乗せた両手を小さくさすっている。
「……」
そんなカイトを、ライタは大地と同じような優しい視線で見つめていた。
ライタの頭にも、大地のぬくもりがほのかに残っていた。
その夜、大地は自分が明日この孤児院を去ることを、誰にも言わなかった。
別段、院長の橋本に口外するなと止められているわけではなかったが、口にすると寂しさに飲み込まれて自分がどうにかなってしまいそう
だったので、どうしても打ち明けることができなかった。
いつもと同じように、みんなとご飯を食べて、片づけをして、遊びに興じて、お風呂に入って、寝る。
明日から失われてしまう日常。
その当たり前の日常が何よりの幸せであったのだと、大地は今初めて気づいた。
この孤児院では、就寝の際はみんなの遊び場である広間に布団を敷きつめ、寝室に様変わりさせてそこで寝る。
みの虫みたいに布団にくるまり、みんなで身を寄せ合って眠るのだ。
小さな吐息が近くで遠くで、いろんなところから聞こえてくる。
大地はここの子どもたちに想いを馳せた。
気が強くて負けず嫌い、大地よりひとつ年下なのにガキ大将みたいなライタ。
甘えん坊で泣き虫だけど、何故かみんなが嫌がるゴキブリは平気で、見つけたら退治を買って出るカイト。
勉強は苦手だが、絵が上手くてまだ七歳なのに二度の絵画コンクール入賞の腕前を持つルイ。
めったに怒らないけど、一度怒ると手がつけられないくらい暴れん坊で、何故かお風呂は絶対大地とじゃないと入らないなつき。
おとなしくて進んでみんなの輪に入らず、本を読むのが大好きで、本の話題になると目を輝かせて話してくれるクルミ。
ひょうきん者でサービス精神旺盛、お笑い芸人顔負けの大爆笑ギャグを数多く持つ真一。
みんなそれぞれ、入所したのは年齢も時期もバラバラだった。
寂しさや気持ちの整理がつかないせいで、最初はなかなか馴染めない子が多かった。
だが、今ではみんなみんな、大地の可愛い弟だった。
弟たちの寝息を聞きながら、自分に抱きついて甘えるように眠るカイトを大地はそっと抱きしめて、目を瞑った。
