仲良く昼食を終えて、ミナトは礼儀作法室へ、大地は再び実技研修室へ向かった。
相変わらずミナトは『礼儀作法の授業はつまらない、行きたくねェ』とぶーぶー文句を垂れていた。
前向きな少年がこれだけ嫌がるということは、本当に本気で苦手なんだなと感じて大地は苦笑した。
だが、大地も本音を言えば実技研修へは行きたくない。
クロマサに犯されて傷ついた心は、ほんの一時間やそこらで簡単に癒されるものではなかった。
クロマサのおかげで男性恐怖症なるものをすっかり植えつけられてしまった。
ここへ来てから心の拠りどころとしているシャマンが、クロマサのような欲望に囚われてしまったら。
少年の意思が存在するなどこれっぽっちも考えずに、息を荒げてのしかかるような男だったら。
そんなシャマンを見たら、オレはここでがんばれるのだろうか。
シャマンに対して芽生えた不安の方が、大地にとってクロマサの一件よりも重大なことだった。
大きな不安を胸に抱いて、大地は廊下を進んでいた。
実技研修室は目と鼻の先だ。
廊下には誰もいない。室内からも誰の声がするでもなく、物音も響いてこない。
誰も来ていないようだった。
朝の状況が否が応でもオーバーラップして、嫌な気がした。
その気分の中ふとあることが頭に浮かんだ。
中村と新人の面接に立ち会っているのなら、クロマサが研修室に来ることはないだろう。
だがミナトが言っていたもうひとりのあいつ…アカベコが来たらと思うと、背筋が寒くなった。
見習いが誰ひとり実技研修室に来ていないこんな状態で、アカベコが入ってきたら。
ミナトは言っていた。『ふたりきりにならねェように気ィつけろな』。
そんな要注意人物とふたりきりになったら…大地は吐き気を伴うほどの恐怖に襲われた。
実技研修室に入りたくない。
あと数メートルなのに、足が進まない。
(他の見習いの子が来るまで廊下で待っていよう)
大地はそう決めて、極力歩幅を小さくしてゆっくり進んでいった。
シャマンはその時、授業に向けて廊下を歩いていた。
その際、大地が背中を向け、実技研修室へ向かっている姿を認めた。
大地の歩みは沈んだものだった。のろのろと表現するのがふさわしいほど、極端に遅い。
後ろ姿は肩がすっかりと落ち込み、小さな身体は消え入りそうだった。
クロマサからされたことに大きなショックを受けていることが痛いほど伝わってくる。
(…大地…)
シャマンは大地へと歩を速めた。
「大地」
背後から声を掛けると、大地はビク、と身を強張らせて振り返った。
シャマンの姿を認めて軽く会釈を返す。その表情は固かった。
大地の様子を見てシャマンはますます胸が痛くなった。
ふたりきりの数時間、実技研修の名の下にどんなひどいことをされたのか。
あんなに下劣でいやらしい男に身体を好きにされたのだ。その心は深く深く傷ついているだろう。
それが今の態度でありありと伝わってきた。
一方声を掛けられた大地は、胸の中でぐるぐるといろんな気持ちが去来していた。
(シャマンさんはクロマサとオレの件を知っているんだろうか。…知られたくないよ、また自分の身を守れなかったトロいヤツだと思われる。
でも普通にシャマンさんと接する自信もないよ。どうしたらいいの?)
さまざまな思いが生じるゆえに自分の行動をどうすべきか迷い、苦しかった。
そんな大地の耳に、ポン、とシャマンの声が届いた。
「大地、お前の午後の実技研修は中止だ」
シャマンの突然の発言に、大地は今まで考えていたことが吹っ飛んだ。
「え?」
「午後のお前の実技研修を中止する。今決めた」
『今決めた』?
中村は先ほど大地の目の前で、『見習いの研修スケジュールはすべて私が決める。お前らが口を出すことではない』とクロマサを叱責していたのに。
大地は疑問に思って尋ねた。
「…中止はご主人様が言ったこと…?」
「いいや、オレが決めたことだ」
平然とそう答えるシャマンの右手にはタブレット端末があった。
大地はそれを見てシャマンがクロマサと大地の一件を知っていることに気づいた。
そして、午後の実技研修中止がシャマンのはからいだということにも。
「で、でもご主人様の許可なしにスケジュールを変えるのは規則違反じゃ…」
「朝の授業が許可なしで変更されたんだから、午後もそれに倣って変えるだけのことだ」
「…それじゃシャマンさんがご主人様に怒られちゃうよ」
「お前が気にすることではない」
こともなげに言いきってシャマンは大地を見下ろす。
視線が合って、大地は胸がキュンとした。
シャマンは、大地がクロマサの件で傷ついていることに気づいてこのような対処を考えてくれたのだ。
それも少しでも嫌な思いをしないでいいように、何も言わないでいてくれる。
彼は絶対にクロマサのような男ではない。
この件で、本当の意味でそう思えた。
シャマンにはまだいくつもの謎があったが、彼が優しい気遣いのできる男であることには違いなかった。
大地は少しでもシャマンに疑念を向けた自分を反省した。
そしてその胸に、なんとも言えない切なさが広がった。
(ん…またなんか胸がヘンだ…)
シャマンの優しさに触れると、いつもこうなる。
落ち着かないけど気になって。
(この気持ちはもしかして…)
大地はこの気持ちの正体を探るため、頬を赤らめつつ、チラ…とシャマンを見上げてみる。
「ん?」
その視線に何か言いたいことがあるのではとシャマンが顔を寄せると、大地は鼓動が一気に跳ね上がって後ずさった。
「わわわっ」
「なんだ、何か言いたいんじゃなかったのか」
「べ、別に、何もっ」
「…変なヤツ」
大地の反応に呆れたような表情を浮かべるシャマン。大地は真っ赤な顔色のまま軽く睨んだ。
(ひ、人の気も知らないで…!!!)
自分の中でどんどん大きくなるシャマンの存在。
大地が生まれて初めて経験する感情にひとりでドキドキあたふたしていると、他の見習いたちがこちらに向かって歩いてきた。
「あっ、シャマンさんだ!!」
彼らは実技研修室への道すがら、シャマンの姿を見つけて喜びながら駆け寄ってくる。
だが、シャマンは相手にしなかった。
「行くぞ」
大地の目を見たままあごで方向を示す。どこかへ連れていこうとしているらしい。
「え、どこへ…」
「来ればわかる」
つれないシャマンに少年たちは残念そうな声を上げた。
「あ〜んシャマンさん冷たいー!」
「でもあのつれない態度もまたいいんだよな…」
「うん、わかる…本当は優しいくせにさ。バレてるんだぞーって余計愛しくなるよね」
「超美形な上にあれじゃあ…どんだけ罪つくりな人だよ」
冷たい態度をとったところで、シャマンはかえって見習いたちを夢中にさせるだけだった。
今度、少年たちはシャマンの隣にいる大地に視線を移した。
「…あの大地ってヤツ、こないだからシャマンさんと一緒にいること多くないか?」
「新入りだからだよ。シャマンさんってば優しいから、何かと気にかけてやってんのサ」
「オレたちもそうだったじゃん」
「くそ、うらやましいな。オレも五日前に戻って、シャマンさんに思いっきり甘えたい」
あからさまな嫉妬と羨望の眼差しが大地に痛いほど注がれる。
(ここにいる子たちだけじゃない。拓海って子も他の子も、みんなシャマンさんに夢中だ。オレに優しくしてくれるのは新人だから。そのうち
別の新人の子が入ってきたら、相手にされなくなって…オレも間違いなくこう思うんだろうな)
大地はシャマンの背中を追いかけながらその優しさと人となりに感謝しつつ、誤解を招くその性分に悲しくなってため息をついた。