シャマンについていった先は、礼儀作法室だった。
「午後はここで授業を受けろ」
そう言いながらシャマンが扉を開くと、ミナトが座敷で並木の前にひとり座っていた。
「大地!」
ミナトは驚きつつ、大地の登場に嬉しそうな笑顔を見せる。
しかし何やら所作の勉強の途中だったようで、即行並木に叱られた。
「こら、よそ見しない!」
「そんなこと言ったって、大地が来たんだぜ?そりゃあ見るだろうがよ」
「そうやってすぐ気がそれるのがお前の悪いところだ。集中力の持続!これがミナトが克服すべきテーマだぞ」
並木の小言に嫌そうな顔をして肩をすくめるミナトを見ると、大地の顔から自然と笑みがこぼれた。
なんだかんだと並木とミナトが仲良さそうなのも手伝って、さっきまでの緊張をすっかり拭うことができた。
「並木、大地の午後の授業はここで頼む」
「…ああ、わかった」
大地を連れて来たのがシャマンだったため、きっと中村の知らぬところでシャマンがスケジュール変更をしたことに並木は気づいた。
が、何も言わず大地を迎え入れた。
「やった、大地と一緒に礼儀作法のおべんきょなら、ちっとは楽しくできるな!やったやった!!」
ミナトは喜んではしゃいだ。
「早く座敷上がれよ!」
「うんっ」
大地はミナトに呼ばれて隣に座った。
シャマンはそれを見届けて何も言わず礼儀作法室を後にした。
ミナトと一緒にいることで少しでも大地が元気になるのなら。
きっとシャマンはそう思ってここへ連れて来てくれたのだろう。
(シャマンさん…)
その姿はもう見えないのに、大地はシャマンが出て行った扉の方をじっと見つめていた。
「おい、友達が一緒だからって遊びじゃないんだぞ?授業を真剣に受けなきゃならないことに変わりはないんだ。わかったかミナト」
「へーへー」
ミナトは面倒くさそうに鼻をほじりながら返事をする。
「…言葉遣いに所作、それぞれマイナス五点な」
「あー汚ねー!!今のは採点するとこじゃねーだろー!!」
「日々の習慣づけが大事なんだ。お前はもっと緊張感を持つこと!」
「集中力に緊張感ね!ハイハイ!!」
「『ハイ』は一回!!」
「…っハァイーーー!」
「伸ばさない!!!」
「…あははっ!」
ミナトと並木のやり取りが可笑しくて、大地は声を出して笑った。
それを見てふたりも笑顔になり三人で笑い合った。
その後、大地はリラックスしてミナトと礼儀作法の授業を受けた。
並木はわかりやすく丁寧に教えてくれた。
特にミナトには根気良く情熱を持って教えているのが伝わってきた。
ミナトも最初ははしゃいでいたが大地の存在がいい刺激になったのか、途中から一生懸命並木の言葉に耳を傾けるようになっていた。
大地はここに来て初めて、楽しい気持ちで授業を受けることができた。
「今日の授業はここまで。ふたりとも良くがんばったな」
並木がそう告げるとミナトは伸びをしながら座敷に寝っ転がった。
「あー終わった〜!」
「お疲れー!」
午前からぶっ続けで礼儀作法の勉強をしたミナトをねぎらって、大地は彼の真似をして隣に寝転ぶ。
そしてミナトの腋がガラ空きなことに気づいて、手を伸ばしてくすぐった。
「わっ、何すんだっ」
「隙あり!!」
「やーめっ…アハハ、やめろって大地!!」
ギャハハハ!とミナトは大笑いしながら丸まっている。大地とふたり、座敷でジタバタと暴れた。
並木はそんなふたりを見ても注意はせず、にこにこと笑っているだけだった。
「ミナト」
「…っえーっ?」
ミナトは大地のくすぐり攻撃から身をよじって逃げながら、並木の声掛けに応じた。
「ミナト、お前に明日、礼儀作法の最終試験を受けてもらおうと思う」
「っえっ」
「っ」
並木の言葉に、ミナトはガバ、と身を起こした。大地もハッとして顔を上げる。
「明日それに合格すれば、お前は晴れて陰間デビューだ」
「ホントかよ!!」
「ああ」
「やったー!!」
ミナトにとって、デビューは悲願だった。大喜びのミナトに並木は釘を刺す。
「おい、まだ受かったわけじゃないぞ。明日に備えて、今日やったことの復習をしっかりしておきなさい」
「わかってるって。やった、やった!!大地、オレ明日受かるから!絶対受かるから!!」
「…ん、がんばってね」
大地はそう答えたものの、複雑な心境だった。
早くデビューして妹のためにお金を稼いでほしい。
ずっとずっと、ミナトの願いだったんだ。一刻も早く叶えてほしい。
だがデビューすればミナトはもう見習い寮にはいられなくなる。
こうやって一緒にいられることは、もうなくなってしまうのだ。
デビュー寮と見習い寮とは行き来できない。
大地がデビューするまでの期間、大好きなミナトと離れることが寂しくて仕方なかった。
(オレ、嫌なヤツだ)
素直に喜べない自分に嫌気が差す。
だがミナトはそんなことに気づく暇がないほど高揚していた。
「よーっし、がんばるぞー!合格するぞー!!」
「合格してもらわなきゃ困る。朝から晩まで、一日中礼儀作法の授業を受けた見習いなんて今までひとりもいなかったんだからな」
並木は呆れたようにミナトに忠告した。
(あれ、並木さん…?)
大地は並木の表情を見てなんだかさみし気なことに気づいた。
それは良く見ないとわからない程度だったが、どことなく声のトーンも少し曇っているように感じる。
手のかかった生徒が自分の元を離れて一人前になる時、教師は嬉しい半面、さみしく感じるという話は良く聞く。
それと同じなのだろうか。
微細でわずかな並木のもの悲しさに気づけたのは、きっと大地が並木と同じ憂いを持った者だからこそなのだろうか。
「ミナト、今日の復習、一緒にやろうよ」
今夜がミナトと見習い寮で過ごせる最後の夜かもしれず、大地は離れ難くてそう提案した。
「おう、ふたりでやれば所作の良し悪しとか確認し合えるしな。頼むぜ!飯食ったら即行風呂入って、オレの部屋集合な!」
「うん!」
ふたりの少年が笑顔で約束するのを、並木はさみしそうな笑顔を浮かべて見守っていた。
その日ミナトは礼儀作法の試験合格に向けて、大地とともに自身の部屋で夜遅くまで勉強に励んだ。
正しい言葉遣いに始まり、文字の美しさ、手紙の書き方、また所作は歩き方から客の着物の着せ方やたたみ方、酌の仕方、煙草やキセルへの
火のつけ方など、基本的なことがらをびっちりと、ひとつひとつ復習していく。
ミナトはとにかく一生懸命だった。
この試験に一発で合格したいという意気込みが並々ならぬものであることを、大地はともに勉強してより強く感じた。
寂しいけれど、ミナトのために、ミライちゃんのために、心から応援しようと思いなおした。
眠たいので大地が何気なく時計を見ると、深夜の二時が近づいていた。
消灯時間なんてとっくに過ぎている。誰も見回りに来ないのでまったく気づかなかった。
『もうお開きにしよう』とこちらが言わないと、ミナトは徹夜しそうな勢いだ。
寝坊したら困るので解散することにした。
部屋に帰って布団にもぐると、今日一日のできごとが頭に浮かんできた。
(クロマサ…)
シャマンの気遣いとミナトの試験とで思い出さないでいられたあのできごと。
部屋を暗くするとあの男の息遣いが耳元に聞こえてきそうで、電気を消せなかった。
大地は恐怖に襲われて寒気を覚え、布団の中で自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
クロマサの脅威は大地の中にまだこんなにも根深く残っている。
(シャマンさん、ご主人様に叱られちゃったかな…)
自分のせいでいらぬ叱責を中村から受けたのではと思うと申し訳なかった。
『お前が気にすることではない』。
そう軽く言ってのけるシャマンを思い出し、心の中がほわっとあたたかくなる。
(んん?この感じ。これって…?)
シャマンの言動を思い出すたびに、なんとも言えない不思議な感覚が胸に走る。
苦しいのに、彼のことを考えると幸せだった。
逆に、シャマンのことを考えると幸せなのに、苦しくて切なくなる。
自分でも不可解なこの感覚はシャマンのことを考えた時だけだった。
ミナトは大好きな友人だが、彼のことを考えてもこんな風にはならない。
そのミナトの話では、陰間見習いたちがシャマンに対して『恋愛的な感情』を持つとかなんとか言ってたっけ。
(まさか、これがその『恋愛的な感情』ってやつか…?)
そう思ってもいまいちピンとこない。
シャマンには好意を寄せているし、その自覚はちゃんとある。
でもこれが『恋愛的な感情』なのかどうかは経験がないだけにわからなかった。
眠たい頭で悶々と考えている大地の耳に、隣室からまだ言葉遣いの練習に励むミナトの声が聞こえてきた。
大地はくすっと笑って、シャマンとミナトの存在に感謝しつつ、明るい部屋で目を閉じた。