百華煉獄58
 翌日。
 大地は並木の点呼に応じようと部屋を出る。
 今日からは隣室のミナトがいない。
 結局新入りもないままだから、大地の隣には誰もおらず空間ができている。

(ミナト、あっちで張り切ってんだろうな)
 一抹のさみしさを感じながらも、同じ敷地内のデビュー寮で希望に燃えるミナトを想像して大地はくすりと微笑んだ。



 点呼が終わると大地は朝食を摂りにひとりで食堂へ向かおうとした。
 そこへ並木が声を掛けてきた。
「あ、大地。朝飯の後は視聴覚室へ向かってくれ」
「視聴覚室…?」

 場所はわかるが、今までの授業では一度も行ったことがないところだ。
 何をするのだろうと首を傾げていると、並木が説明した。
「今日の午前はそこでお前に教習動画を見てもらおうと、ご主人様が提案されたんだよ」
「……」
 
 教習動画。
 その言葉に、中村の提案だということも手伝って何故かわからないが嫌な予感がした。


「時間厳守だぞ」
「…はい」
 ぺこ、と頭を下げながら、大地はふと並木を見上げた。
 彼はかつてのミナトの部屋をじっと見つめている。
 その表情はなんとも言えず物悲しかった。


 おととい、大地がシャマンの気遣いで礼儀作法室に行った時もそう感じた。
 ミナトがデビュー試験を受けることになったと伝えた時だ。
 彼はミナトがいなくなったことがさみしいのだろう。
(並木さん、ミナトには特別目をかけてたんだろうな…そんなミナトがデビューしたことは嬉しい反面さみしいんだ)
 大地は同じ気持ちを共有している者だからこそ、並木の気持ちが痛いほどわかった。


 思わずじっと見てしまった大地の視線をその身に感じて、並木はハッとなって口を開いた。
「…あいつ、ほら、にぎやかだったから…うるさいくらい元気だったから。いないと静かだな…」
 少し赤くなって言い訳をするように話す並木に、大地は小さく笑ってうなずいた。
「…うん、いないことが目立っちゃうくらいにね」
「ああ、ホントに静かだ…」
 ふたりはそのまま、少し切ない気持ちでミナトがいないさみしさをわかちあった。



 その後ひとりで朝食を摂った大地は視聴覚室へ向かった。
(ヤだなぁ、ご主人様が言い出したって…何を見させられるんだろ)
 先ほど抱いた嫌な予感がますます強くなってくる。
 のろのろと歩いたところで視聴覚室にはすぐに着いてしまった。


 扉を開けると、部屋には誰もいなかった。
 他の授業で使用する部屋と比べると広めだった。建物の突き当たりに位置しているため、両脇が窓ガラスになっていて外の景色が見える。
 部屋全体は半面のすり鉢状になっており、一番低い場所の教壇に当たる側に向かって長い机と椅子が扇形に広がっている。
 教壇に当たる側と言ってもそこには机がなく、スクリーンが設置されていた。
 インチ数まではわからないが六畳ほどの大きさがあった。


 そうしていると、背後の扉が小さな音を立てて開いた。
 振り返るとそこには中村がいた。

「っ…」
 思いがけない中村の登場に、大地に緊張が走った。
 こんなひどい環境下に自分を置いた張本人だ。
 優しさや情けなどが欠落した能面のような顔。
 相変わらずの中村が静かに自分に近づいてくるので、大地は身構えた。


「今日のお前のスケジュールは、午前はここで教習用の動画を見て、午後は実技だ」
 自分を警戒する様子には一向に構わず、大地に席に座るよう手振りで示す。

 手近な席に着きながら、大地はいぶかし気に質問した。
「教習動画ってどんなものなんですか」
「陰間の見習いに見せる教習動画と言ったら内容はひとつだろう。セックスのハウツー動画だ」
「っっ…」

 率直な中村の物言いにぐっと喉をつまらせる大地に、中村は鼻で笑いながら告げた。
「昨日の挿入練習では過呼吸になったと、その場にいた複数の教育係から聞いている。どうやらクロマサに襲われたことで過剰な恐怖心が
芽生えているようだが、客と相対するたびに過呼吸の発作が起こるようではせっかくの名門が泣く。お前にはとにかくセックスに
慣れてもらわなければならん」
「…!!」
 確かに昨日はクロマサの面影に支配され呼吸がうまくできなくなった。どうにかシャマンがそれを収めてくれるよう誘導してくれたから
落ち着けたのも事実だ。
 だがここで客観的に人のセックスを見られるほど、レイプされそうになった恐怖心が拭い去れたわけではない。


 中村はいつの間にか持っていたリモコンで、窓ガラスから差し込む光を遮るため暗幕を閉じる操作を行う。
 続けて部屋のライトを順々に消していった。

「お前のデビューを心待ちにしている顧客様がいるんだ。時間がない」
 心の準備もないままどんどん動画上映のセッティングがなされていく様子に、大地はたまらず言った。
「ちょ、ちょっと待ってください…!」
「そんな中セックスに対するお前の怖れを少しでも減らすために、わざわざこういう時間を設けているのがわからないのか」
「でも…」
「午後は尺八の実技が控えているんだから、少しでも知識を与えてやろうという親心じゃないか」
「え…」


 部屋が真っ暗になる直前に大地が見た中村の顔。
 その細い目は三日月のように弧を描いてはいても、決して笑みをたたえているわけではない。
 冷えた光を放つそれは絶対的な服従を強要するものに他ならなかった。
 親心などと体のいい言葉で大地のためだと匂わせながら、実際はそんなつもりなど毛頭ないことは見え見えだった。


 中村はプロジェクターのスイッチを押したようで、中央のスクリーンが明るく照らされた。
「見てるうちに気分が悪くなっても、最後までしっかり見ろ。これはお前が陰間になるための必修科目だ。見る気がないのならお前は
中村屋の陰間にはなれない」
「っっ」
 ここで雇ってもらえないことが大地にとってどんな意味を持つのか。
 それは絶対に避けたいのだ。ライタやカイトたちをここに連れて来させないためには、どんな無茶でも中村の言うことにすべて従うしかない。
 大地の戸惑いに気づいているくせにそんなことお構いなしにどんどんことを運んでいく中村の強引さは、陰間や見習いの人格を完全に無視していた。


 この男が近くにいるだけで威圧感に気圧されて居心地が悪い。
 また午後の授業が尺八だと告げられたことも、大地の動揺をさらにかきたてる。
 気持ちが整理できないうちに教習動画の再生が始まった。