その後、泣く子どもたちをどうにか落ち着かせ、大地以外の孤児たちは寺子屋へ登校するため『太陽』を後にした。
ライタには最後、ここを頼むと一言だけお願いした。
短い言葉ではあるが、大地がライタへ託した想いのすべてだった。
それを告げられたライタにも心づもりはできていたようで、力強くうなずいていた。
ライタがそう思っていてくれるのなら、きっと大丈夫だ。
大地は心底頼もしかった。
カイトは登校時間ギリギリまで大地から離れようとせず、しまいにはライタのゲンコツを脳天にキメられ、余計に泣いて大騒ぎになった。
だが他の子どもたちの助けもあって、どうにか引き剥がしに成功し、そのままなつきと真一に引きずられるようにして出ていった。
申し訳ないなと思いつつも、あそこまで慕ってもらえるなんてと嬉しかった。
また、最後までいつも通りのにぎやかな『太陽』が余計に愛しく感じた。
ここの子たちと別れるのは身を切られるように辛かったが、泣いてばかりもいられない。
これからは中村屋という茶屋の従業員として、懸命に働かなければならないのだ。
甘えさせてくれる者はどこにもいない。大地は気持ちを切り替えた。
それほど多くない自身の荷物をまとめた後、院長の橋本の元へ向かった。
彼からは、中村屋の住所と地図が記されたメモを手渡された。
「ネオ芳町…」
大地はメモの住所を見つめたまま、ひとり呟いた。
初めて聞く街の名前だった。
大地はもちろん行ったことのない場所だ。
ゆえに、ここからどれくらい離れている街かピンと来なかった。
「地図の横に道順が書いてあるだろう。電車とバスを乗り継ぐが、それに倣って行けば2時間ちょっとで着く」
橋本の説明に、大地は少し落ち込んだ。
(二時間ちょっとか…結構離れたところだな。これじゃうまく時間を作らないと、なかなか帰って来られないかも…)
大地の気持ちを知ってか知らずか、橋本が促した。
「さァ大地、中村さんがお前の到着を待っているんだ。早く行きなさい」
大地はいよいよここを巣立つ時が来たと、気を引き締めた。
橋本の真向かいに立ち、深々と頭を下げる。
「父さん、僕をここまで育ててくれて…ありがとうございました」
そして顔を上げ、しっかりと伝えた。
「オレ、一生懸命働いて、お給料を少しずつでもここへ入れます」
すると橋本は意外そうな顔で答えた。
「お前を育てたことは、親として当たり前のことだ。金など要らないよ」
「でもオレ、少しでもそのお金を孤児院のために役立ててもらいたいんです。最初は少ない金額しか入れられないかもしれないけど、
できる限りのことをして、ご恩返しがしたい」
橋本は大地の申し出をじっと聞いていた。
そしてフッと笑った。
「そうか。そこまで言ってくれるのなら、息子の厚意に甘えさせてもらうよ。かといって無理はするなよ。約束だぞ?」
この施設への愛情が伝わって、大地も微笑みながらうなずいた。
「離れていても、お前はここの子だ。私の家族だ」
橋本の言葉に、大地は嬉しくて照れくさそうに肩をすくめた。
その後大地は、食事などを世話してくれていたボランティアの女性数人に改めて礼を言って、孤児院を去った。
橋本と女性たちは遊歩道の入り口まで見送ってくれた。
何度も振り返り、そのたびに頭を下げた。去りがたい想いは、どんなに気持ちを切り替えようと思っても、簡単に拭えるものではなかった。
そんな大地に橋本は手を振りながら、応えていた。
「…オレたち家族のために、せいぜい身体張って大金稼いでくれよ…」
不気味な視線で呟かれたその言葉に気づく者は誰ひとりいなかった。
大地は渡されたメモを頼りに、どうにかネオ芳町の近辺に辿り着いた。
地図にはネオ芳町の面積がかなり大きく描かれている。
他の街との比率を考えると、ずいぶん広い街だと感じた。
(その割りには聞いたことなかったけどなァ…)
大地がそう思いながら歩いていると、ふと通りの先に大きな黒いものが見えた。
高さは五十メートルぐらいだろうか。
ずいぶんと高い。
「…んん?」
最初は何かのビルかと思っていたが、よく見るとそれは壁だった。
それは右に左に、大地の視界の端の端まで広がっている。
黒という色の効果もあってか、ずいぶんと怖ろしく感じる。
まるで今自分が立っているこちらと、その先にある場所を隔絶するものに見えた。
こんなものが街中にでんと居座っているなど見たことがなく、異様な光景だった。
地図を目にすると、どうやらその先がネオ芳町であるらしく、大地は驚いた。
(え…マジかよ…!!)
その黒い壁に駆け寄り、あたりの景色と地図の目印を照合してみる。間違いなかった。
右を見て、今度は左を見てみる。
遠くで見た時同様、そこには黒い壁が延々と切れ目なく広がるばかりだ。
大地は大いに弱った。
(この壁、なんのためにこうなってんのか知らないけど、どうやってこの中に入ればいいんだよ。地図にはそんなこと描いてないし、
こんなんじゃ中村屋に行けないじゃないか)
こんなに高くて引っかかりのない壁、まさかよじ登るなんてできないし…と戸惑うものの、こうやっていてもらちが明かない。
困っているうちにどんどん時間が過ぎてしまうと、中村に迷惑がかかってしまう。
大地は人に尋ねた方が早いと、ちょうどその時目の前を通りかかった中年の女性に声を掛けた。
「あの、僕この向こうのネオ芳町に行きたいんですけど、どうやったらこの中に入れますか?」
中年女性は最初、子どもに呼び掛けられて笑顔になるなど親切な様子を見せていたが、大地の問いかけを最後まで聞くとぎょっとした
表情へと一変した。
その反応があまりにも極端で思いがけないものだったので、大地は思わず驚いてしまった。
「えっ…?」
「あ、ああ、ごめんなさい」
女性はふと我に返ったようで、取り繕うように笑顔を作った。
「…この先へはどうやったら入れるんでしょうか?」
大地が改めて伺うと、女性は無言で大地の顔を見つめ返した。
その表情はどこか寂しげであった。
(さっきのびっくりした感じにしろ今の顔にしろ、この人いったいどうしたんだろう。別の人に聞けば良かったかな…)
大地がやや後悔し始めた時、女性は静かに口を開いた。
「ここから右へ二キロくらい歩いたら、入り口があるわ」
「二キロ!?」
大地はあまりの答えに素っ頓狂な声を上げた。
「…ええ。ネオ芳町はそこからしか入れないの」
そこからしか入れない。
道理で、見えるのはただただ壁だったのか。
「わかりました、ありがとうございます!」
二キロも歩かなければならないのなら、先を急がねばならない。
大地はぺこりと一礼して、慌ただしげに駆け出した。
「あ…坊や!」
中年女性は大地に何かを言おうと声を上げた。
だが、それは大地の耳に届かなかったようで、駆けていく背中がどんどん小さくなっていく。
「……」
女性の顔には、憐れむような色が浮んでいた。
