百華煉獄83
 この日実技研修が終わって大地が中庭をなんとなく歩いていると、夕闇に映えるシャマンの黄緑色の髪が見えた。
(ん?誰かといる…?)
 長身のシャマンは少し俯いてそこに佇んでいる。どうやらひとりではないようだ。
 大地はそっと近づいていった。


 シャマンといたのはリオンだった。
 大地はシャマンとふたりきりでいられる彼への嫉妬で少し嫌な気持ちになったが、いつものリオンとは様子が違って見えた。
 彼は小さな声で言った。
「…とうとう、この時が来たね」
「……」
「明日からは、もう…会えないね」


 大地はハッとした。
 リオンのデビューが決まったのだ。
 リオンは笑顔ではいるものの、大好きなシャマンを目の前にしてもその顔を見られないようで、伏し目がちだった。

 本当は陰間などならなくていい身の上なのに、シャマンと一緒にいたい、その一念で中村屋の陰間見習いとしてここで過ごした。
 その期間はたったの九日。
 この九日間のためだけに、リオンは陰間になる道を選んだ。

「オレは本当は経験者だからもっと早くデビューできたんだろうけど…『レイプされた』なんて嘘ついたことがバレないように、九日もいさせてくれたんだよね。
シャマンさん、ありがとう」
 シャマンは何も言わず、静かにリオンの話を聞いていた。

 見習いになれば余程のことがなければデビューは避けて通れない。
 さまざまな事情を抱える彼らは、デビューした先に過酷な毎日が待ち受けていることを知っている。なので嬉々としてデビューする者は皆無に等しい。
 そこにどんな言葉をかけても慰みにならず、野暮であることをシャマンはわかっていた。


 黙ったままのシャマンに、リオンは肩を揺らせて笑った。
「ふふっ…シャマンさんは優しいね。本当に優しい」
「……」
「僕さ、ずーっと思ってることがあって。それはね、間違いなくシャマンさんがネオ芳町一…ううん、世界一のイイ男だってこと!」
 リオンは顔を紅潮させて、この時初めてシャマンを見上げた。
 その目は少しうるんでいるものの表情は明るかった。

 シャマンは感情が読み取れないいつもの顔で、やっとリオンに言葉を返した。
「…オレは優しくなんかない。イイ男でもない。かいかぶりすぎだ」
「そんなこと…」
「いいや。他の男がろくでもないヤツばかりだから、多少マシなオレがそう映るだけだ。夢を壊すようで悪いが、ネオ芳町で暮らす時点でヤツらとオレは同じ穴の狢だ」


(シャマンさん…)
 大地はシャマンのその言葉を聞いて胸が締めつけられるような感覚に陥った。
 シャマンは自分をそんな風に評価していたのかと初めて気づかされた。
 その自虐的な思想に至るには、どんなことを経て、どんな想いをしてきたというのだろうか。


「……」
 シャマンの発言を聞いて、輝く笑顔を見せていたリオンはゆっくりと真顔になっていった。
 口元には小さく笑みを残してはいたものの、さみし気に俯いた。

 さっきまで饒舌だった少年が何も言わなくなった。
 その肩は少し震えている。
 生意気で意地悪だが、同じ人を慕い、同じ時を過ごしたリオン。
 大地は彼のそんな姿を見て、息がつまった。


 シャマンもそう感じたのか、リオンに声を掛けた。
「リオン」
「……」
 肩の震えがやや大きくなり、ふぅ、ふぅ、と彼の吐息が聞こえてくる。
 さっきの言い方はきつかった、と泣き始めたリオンの顔を覗き込もうとシャマンが少し身をかがませた。
「リオ…」
 その瞬間、リオンは顔を上げてシャマンに抱きつき、口づけた。


「!!!!!」
 物陰から見ていた大地は思わずその場で立ち上がった。

 リオンのまさかの行動に、隙を突かれたシャマンは目を丸くしている。
 呆気に取られているシャマンからリオンはさっと身を離した。
 そして今の衝撃で少しずれたメガネを直しながら、舌を見せて笑った。
「へへっ」
(あ、あいつ…!!!)
 あのシャマンの口唇を奪うなど、なんてこしゃくなヤツなんだ。
 大地は嫉妬のあまり顔を真っ赤にしてリオンを睨んだ。

「おい…」
 リオンがこんな行動をとるとは思ってもいなかったシャマンは、リオンを叱るように厳しく見つめた。
「わァ、そんな顔も素敵。ごちそうさまでした!」
 悪びれず、シャマンと重ねた口唇を味わうようにリオンはぺろりと舌舐めずりをする。
 ケラケラと楽しそうに笑う彼に、シャマンは呆れたような表情を浮かべた。


 そんな時が少しだけ続いて、リオンが明るく言った。
「名残惜しいけど、いつまでもこんなことしてられない。じゃ、行ってくるよ。シャマンさん、今までありがとう!!」
 くるり、とリオンはシャマンに背を向ける。
 大地はこの時初めて自分が立ち上がっていることに気づいて、彼らに見つかってはならないと慌ててその場にしゃがみ込んだ。

 大地は不思議だった。
 あれだけシャマン、シャマンとうるさいくらい追いかけ回していたリオンなのに、最後は驚くほどあっさりとした別れに見えた。
 リオンはだんだんとこちらに近づいてくる。
 大地は気づかれていたのかと少し焦ったが、大地の後ろ側の方向に中村屋のデビュー寮があるためそこに向かっているのだとわかってホッとした。


 シャマンから遠く離れ、その代わり大地のほど近いところにリオンが来たことで彼の独り言が聞こえてきた。
「…大丈夫、大丈夫。これは、自分が決めたことだから…」
 ライトに照らされたリオンの表情は張りつめたものに変わっていた。
 シャマンと話している時にはあんなに明るく元気だったのに、と大地はリオンの変化にハッとした。
「平気、平気。大丈夫、大丈夫」
 リオンは同じ顔のまま、何度もそう繰り返す。
 自分に言い聞かすように反復されるその言葉には、リオンが中村屋の陰間になることへの大きな不安と、シャマンと離れる悲しさが如実に表れていた。


「リオンは生意気で、嘘もつくし、食えないヤツ。だから最後までそんなイメージのオレらしく、シャマンさんの前では泣かないんだ。泣くとシャマンさんも
どうしていいかわかんないしね。困らせたくないし。うん、オレって偉い」
 歩きながらそうひとりごちるリオンが大地の至近距離まで来て足を止めた。
 そこは中庭からの出口になっている場所で、その表情から大地に気づいているわけではないようだった。

「…シャマンさんと一緒にいられなくても、これからもオレは持ち前のあざとさでやっていけるさ。楽勝楽勝」
 強がり。
 あんなの、全部嘘っぱちだ。
 大地はリオンの言葉がすべて虚勢だと見抜いていた。


 シャマンは遠くでずっとリオンの後ろ姿を見ている。
 でもリオンは絶対に振り返らなかった。
 きっと一度振り向いてしまうとここまで保っていたやせ我慢ができなくなると思ってのことだろう。

「んでさ、今ナンバーワンの人なんかみるみるうちに追い抜いて、オレがナンバーワンに輝いて、ネオ芳町中にリオンの名を轟かす。シャマンさんも驚くほどの
すごい陰間になるんだ…」
 そう言って、リオンは歩を進めようとした。
「……」
 しかしできなかった。
 この一歩を踏み出すと、もうシャマンとは『陰間見習い』と『教育係』の関係ではなくなってしまう。
 そう思うと足を踏み出せなかった。


 オレは、この九日間のために生きたんだ。シャマンさんと一緒にいられる九日間のためだけに。
「オレ…馬鹿だよなァ…この先の長い人生よりも、シャマンさん第一で考えて…しかも、どんなに惚れたって、シャマンさんは誰のモノにもならないのにね」
 リオンはぽつりとそう呟いて、ちらり、と視線を後ろに送った。
「っっ」
 次の瞬間、リオンが身を震わせた。
 完全に見てはいないものの、気配でシャマンが元の場所のまま自分を見つめていることがわかったからだ。

「……〜〜〜……!!!」
 泣かない、と言っていたリオンの瞳から大粒の涙がこぼれた。
「ば、馬鹿だけど…後悔してない…!シャ、シャマンさんは…っっ優しくて、せ、世界一イイ男だもん…!シャマンさんがどう言おうと、絶対そうなんだ…!!」
 我慢していた分、シャマンへの想いが堰を切ったように溢れ出る。
「ぅっ、…ん、ふぅ…!」
 しゃくり上げて自然に出る声を押さえようと、両手で口を覆った。
 涙を止めようにも、リオンはどうすることもできなかった。


 ひとしきり泣いた後、落ち着きを取り戻したリオンはひとつ小さな息を吐いた。
 シャマンがまだ自分を見ていることを背中で感じて、気を取り直して顔を上げる。
「シャマンさんは罪深いよ。最後の最後まで優しいんだから」
 メガネを外し、涙をぐい、と力任せに手の甲で拭う。そして小さな声で囁いた。
「…シャマンさん、大好き」
 リオンはその言葉を最後に、一歩一歩確かな足取りでデビュー寮へと進んだ。


 どんなに焦がれても、この恋は実らない。
 それは痛いほどわかっている。だけどやっぱり、好きで好きでたまらない。

(同じだよ。オレも同じだ)
 リオンが見習い寮を後にするのを見ながら、大地は胸が締めつけられた。
 たった九日という期間、シャマンと一緒にいられることを選んだ彼のこれからの支えは、生きがいは、なんになるのか。
 それはどんなものでもシャマンを上回る価値はないだろう。

 シャマンへの想いを断ち切って、数々の男に身体を売る場所へ向かう。
 リオンの姿は近いうちに必ず自分に訪れる未来だ。
 その時リオンのように振る舞えるかどうか。
 結局一度も振り向かなかったリオン。
 嫌なヤツでも、その潔さは立派だと大地は感じていた。


 リオンの姿が消えても、シャマンはまだそこで静かに佇んでいた。
 その瞳はどことなく悲しげでやりきれない表情に見えた。
 こまっしゃくれていても、どこかつめが甘くて実はおとぼけなところのあるリオンだった。
 そんな彼を、シャマンは中村屋でうまくやっていけるのか心配しているのだろう。


 鼻持ちならないリオンがいなくなって少しはせいせいするかと思っていた大地だったが、今の様子を見るとそんな気持ちにはなれなかった。
 ただただ陰間茶屋というところの無情さ、またそれぞれの無念を強く感じる場面だと思った。