殿の誕生日 21
鑑導はその日、囲炉裏で湯を沸かしながらソワソワしていた。
昼八つの時刻を知らせる鐘が鳴っても、大地之助がやって来ないのだ。
この時間になっても来ていないのは、初めてのことだった。
鑑永寺までは人通りの少ない山道を通って来ているはずだ。
この山は物騒な話が尽きない。
野犬も出るし、少し前には追いはぎが出たばかりだ。女子ども相手に妙なことをするヤツの話も頻繁に聞く。
(…あいつ、人がいいトコあるから、道を尋ねるとかなんかの振りして近づいてきた変なヤツにでも、何の疑いもなく親切にしてやりそうだな…)
最初の日に、脅かすつもりで自分が押し倒した時の大地之助を思い出す。
(そんな男が本気で襲いかかってきたら、あいつひとたまりもねぇぞ?逃げられるわけがねぇ!!)
そう考えると、鑑導は居ても立ってもいられずに立ち上がった。
その時、玄関の引き戸がガラガラと開く音がした。
「っ、大地之助っ!」
そう叫んで駆けつけると、そこにいたのは大地之助ではなく、万次郎だった。
「…鑑さん。どうしたんだい、そんなに慌てて」
万次郎は鑑導の剣幕に少し面食らったような顔をしていた。
「…大地之助がまだ来てないんだ、あいつまさか妙なことに…」
青い顔で気もそぞろにわらじを履こうとする鑑導に、万次郎は言った。
「ああ、大地之助殿は急に入った殿のご公務のお付きで今日はここへ来られないんだ。だからオレがその旨、ことづかって知らせにきた」
「そ、そうか…」
大地之助が何かよからぬことに巻き込まれたのではないことを知り、鑑導は胸を撫で下ろした。
「…お前、時間があるなら上がってけよ」
「ああ、そうさせてもらう」
奥の部屋に入り、鑑導は万次郎に茶を淹れる。そして一緒にまんじゅうを差し出した。
「これ、あいつが好きだってんで用意してたんだが…来てないんならお前食うか」
「ありがとう、いただくよ。ん?これって…」
このまんじゅうは、城下町で人気のある三浦堂のものだった。
「…あ、ああ、そこの菓子は、大地之助の母親が生前大好きだったらしい」
たわいのない会話の中でそれを覚えていた鑑導は、大地之助が喜ぶと思ってわざわざ城下町まで下りて買いに行ったのだろう。
どことなく鑑導が寂しそうなことに気づいて、万次郎はまんじゅうを口に入れながら聞いた。
「大地之助殿が来られないと知って、つまらなさそうだな鑑さん」
「っ、バカ言え!」
鑑導は図星をつかれて真っ赤になっている。
「あいつが来るようになって、毎日騒々しくて落ち着かなかったんだ。たまには静かになってちょうどいいっ」
「へーえ?」
鑑導の本心がそんなわけないのは分かっていた。昔馴染みの万次郎には、すべてお見通しなのだ。
くすくす笑う万次郎に自分の気持ちを見透かされていることに気づいても、照れがあってなおもあがいた。
「…お前じゃあるまいし」
万次郎はそれを聞いて笑うのをやめ、真面目な様子で答えた。
「オレは…オレの気持ちに大地之助殿が応える日が来なくても、それでいい。あの子の笑顔が絶えることがなく、殿に心から愛され大切にされていれば、
それでいいんだ」
湯呑みを持って小さく微笑む万次郎を見る。鑑導は自分も同じ気持ちだと思った。
あいつに対して持っているこの特別な感情を、きっと口に出すことはないだろう。
想いが届かなくても、それでいい。大地之助が幸せでいてくれさえすれば、オレは…。
あんなガキ一人にこのオレがなんてザマだと鑑導は妙に可笑しくなって、自嘲気味に笑った。
そんな中、鑑導はふと気になって顔を上げた。
「おい、大地之助がここに来てること、殿サンや城の者にホントにバレてないのか?」
「バレてるよ」
「な、なにィ!?」
なんてことだ。大地之助は絶対バレないなんて言っていたが、やはり異変に気づかれたようでしっかりバレているではないか。
鑑導はうろたえた。
「もしかして、お前がここに連れて来たってことも…?」
「ああ、分かったみたいだ」
鑑導の心配をよそに、万次郎は平然とまんじゅうをパクつく。
「分かったみたいだって、んな悠長にまんじゅう食ってる場合かよ。お前立場的にヤバいんじゃねぇか?」
「んん、殿に直接問い詰められたが、しらばっくれた」
「え?」
「まだ疑われてるだろうけど、秘密にするという大地之助殿との約束だ。言わなかったよ」
いやはや、惚れた一念と言うべきか、一番偉い殿に嘘を突きとおせる万次郎の一途な想いに、鑑導は感心…というか、呆れて開いた口がふさがらなかった。
「いいのかね、城に仕える人間がそんなご法度なことしても」
「大地之助殿が喜ぶのなら、オレは命をかけてもいいと思っている」
万次郎は清々しい表情で、きっぱりと言い切った。その想いに嘘偽りがないことを、鑑導ははっきりと感じ取った。
「殿は嫉妬に狂ってたよ」
困ったように万次郎が笑うのを見て、鑑導は頭を掻いた。
「オレと大地之助がイイ仲になってんじゃねぇのかって?あらぬ疑いだな」
「まんざらでもないんじゃないか、鑑さん」
万次郎が再び見透かしたような顔で、フフンと笑いかけてくる。鑑導はため息をついた。
「殿サンがそう思いたけりゃ思えばいいさ。現実にそうだったら殺されるだろうがな」
そして『う〜ん』と感心したように唸りながら続けた。
「しっかし、お前もすげぇな。大地之助はお前のそんな想いにゃ気づかずに…ってわけか。罪作りだねぇあのちび助も」
万次郎の湯呑みに茶をもう一杯淹れる。それを受け取りながら、万次郎はニヤリと笑った。
「そう言う鑑さんも、オレと同じ気持ちのクセに」
「ふんっ。どうかな」
鼻で笑う鑑導が暗に認めたことに気づいて、万次郎は言った。
「オレら、バチ当たりだよな」
鑑導は照れ隠しにまんじゅうを口に放り込んだ。
「どうとでも言え」
万次郎はそれを見て、クスッと笑った。
