殿の誕生日 31
 次の日の朝。

 外が明るくなったのに気づいて、先に目覚めたのは殿だった。

 隣を見ると、大地之助は昨晩ここに運んで来たままの、自分に抱きついた姿勢で眠っている。

 ふ、と殿は笑って、そっと身を起こした。


「イテテ…」

 一晩中腕枕をしていたせいで、左腕がしびれている。それをかばうように右手でこすりながら、隣の部屋にある大地之助からもらったわらじを取りに行った。


「ん?」

 わらじを包んであった風呂敷の下に、何やら紙があるのを発見した。殿はそれを手にとって開いた。



『殿へ


 おたん生日おめでとう。

 この大変よろこばしい日に、殿と一しょにいられること、とてもうれしく思います。


 このわらじは一生けん命作りました。

 下手くそかもしれないけど、その辺りは目をつぶってくれるとうれしいなぁ。

 長旅の時にでも使ってください。


 来年もさ来年も、殿のたん生日を一しょにむかえたいです。


 大地之助』



「……」

 殿は感無量だった。

 その手紙を手にしたまま、すぐに大地之助の元に向かった。


 すやすやと寝ている大地之助の頬を、こちょこちょとくすぐる。大地之助はゆっくりと目を開いた。

「んん…?」

 ぼやけた視界の中に、満面の笑顔を浮かべた殿が入ってきた。

「大地之助、読んだぞ!」

「あ」

 昨日渡しそびれた手紙を示し、殿は笑顔をほころばせている。

「ありがとうな、もちろん来年も再来年も、その先もずーっとずーっと、お前と一緒に誕生日を迎えるつもりだ」

「うん…」

 大地之助は殿がそう答えてくれたことが嬉しくて、上体を起こしながら寝ぐせのついた頭を掻いた。


「…大地之助〜!!」

 殿は愛しさが最高潮に達して、裸の大地之助に求愛を始める。

 細い首筋に熱い吐息を吹きかけながら猛烈に口づけを繰り返す殿に、大地之助は苦笑しながら言った。

「やめてよ、僕それよりお風呂入りたい」

「じゃあ風呂場で続きやろうっ」

「やだよ、殿の助平!」

 クスクス笑って布団に上半身を倒し、笑っている大地之助。そのせいで昨日可愛がったお尻がぷりんっ、と現れた。


(誘ってんのか…)

 殿は思わずむしゃぶりつきたい衝動に駆られたが、本気で怒られそうなのでもらった手紙に改めて視線を移した。

「しかし驚いたな、いつのまにこんなに字が上手になったんだ?」

 ほんの少し前まで、お世辞にも上手いとは言えなかった。知らぬ間に練習していたんだなぁと感心している殿の耳に、一番聞きたくない名前が飛び込んできた。


「それ、鑑さんが教えてくれたんだよ。あの人習字もものすごく上手なんだ。だからこれからも教えてもらいに、鑑さんのところへ通おうかと思って」


 殿の笑顔が瞬時に固まる。手紙を持つ手は、はっきりと見てとれるほどわなわなと震えていた。


 異変に気づいて、ちょっとヤバいかなぁ…と思いつつ、聞いてみた。

「いいでしょ?」


「ダメだっっっ!!!」

 殿は顔を真っ赤にして反対した。

「なんで!」

「ダメなもんはダメなんだっ!!」


 一人で山奥に住んでいる男、しかも大地之助に懸想している男の元へみすみす寄越すなど、酔狂の極みだ。許せるわけがない。

 大地之助は大地之助で、理由も言わずに頭ごなしにダメだと言い張る殿に頭にきて言い返した。

「だからなんでだよ!殿だって、僕は字が下手だからちゃんと誰かについて習わないとって前から言ってたじゃないか!」

「それは別の誰かでもいいではないか、鑑導でなくても問題ないっ」

「僕は鑑さんがいい!鑑さんじゃなきゃイヤだ!」

「っ…そんなこと言われたらますます許すわけにはいかん!それならいっそ、ずっと字が下手なままでいい!!とにかくいかんぞ、鑑導は絶対いかん!!」


 さっきまでの仲睦まじさはどこへやら、二人はたちまち険悪な空気に包まれる。

「ただ習字習うってだけなのに…殿は鑑さんに会ったことないからそう言うんだ。鑑さん、とってもいい人なんだよ?」

 大地之助は悲しそうな瞳で俯く。

 可愛い可愛い小姓の望み、殿だってそりゃあ叶えてやりたかったが、こればかりは了承しがたい。殿はどうにか説得しようとした。


「お前はただの手習いのつもりであっても、向こうはそう思ってないかもしれないだろう」

「え?」

「鑑導がお前に想いを寄せていると聞いている。お前にその気はなくとも、ヤツがいつ何時妙な気を起こすかもしれん。だから私は安心して通わせることが

できぬのだ」


 大地之助は首を振って笑い飛ばした。

「あ、それはないよ。鑑さんの好みは…なんて言ってたかなぁ。ああそうそう、大人でマショウの人だから、僕みたいなのはガキくさくて物足りないってさ」


「…!!!」

 鑑導が大地之助に気があるのもハラハラして苛立つが、好みじゃないと言われるのもこの大地之助のどこが不服なのだと癪に障る。

 だいたい鑑導がそう言うのだって、本心かどうか怪しい。

 そうやって宣言しておけば、大地之助が油断して近づいてくる。そうなれば断然手を出しやすくなるからだ。うん、絶対そうだ。

 殿は大地之助を愛するあまり、深読みしすぎて思考が明後日の方向に行ってしまいがちだった。


「とにかく鑑導のところへ行くのは許さんからな」

 殿はすっと立ち上がった。

「大地之助、この話は終わりだ。さあ、すぐに髭を剃って、着替えさせてくれ」

「……」

 大地之助はそう言われても返事をせず、布団に座ったままだった。ムスッとした表情で、絵に描いたようなふくれっ面をしている。


「おい、聞こえなかったか、髭…」

「鑑さんに習字習えないんなら、僕、お城出ていく」

「なに――――――――っっ!!!???」

「お城出て、それで鑑永寺に住む」


 殿は仰天して、大地之助に詰め寄った。

「お前、自分が何を言ってるのか分かっているのか!」

 視線を布団に移したまま、大地之助は力強くうなずいた。


 殿は嘆くように悲痛な声を上げる。

「―――〜〜…さっきの手紙に、来年も再来年も一緒にいたいと書いてあったではないか!」

 大地之助は思いつめた表情で、何も答えなかった。


 もちろん大地之助は本気で城を出ていこうとは思っていない。なのでうろたえる殿を見て良心は痛むが、一歩も引く気はなかった。

「あう…ぁ…」

 大地之助のいない生活など、怖ろしくて想像することすらできない。

 ここで出す殿の答えは、一つしかなかった。


「分かった…習字はこれからも鑑導に教えてもらえ…」

 虚脱して告げる殿とは反対に、大地之助は飛び上がって喜んだ。

「やったぁ!やっぱり殿、優しい!!ありがとー!!」

「ハ…ハハ…」

 正面から素っ裸の大地之助に抱きつかれ、殿は力なく笑っていた。


 仔猫のように、ゴロゴロと殿のひざの上で甘えている大地之助の肩を撫でさすりながら、自分の人の良さに呆れ果てている殿の頭に、ある考えがひらめいた。

「大地之助、鑑永寺に行くのは許すが、それには二つ条件がある。それがダメならこの話はなしだ」

「条件?」

 大地之助は胸元から殿を見上げた。


「ああ、一つは、お前と鑑導、二人きりで会わぬこと。必ず家臣を連れていくのだ」

 今まで通り二人で気兼ねなく過ごしたいのに、誰かがいると窮屈だよ、と思った大地之助は不満そうな声を上げた。

「…え――〜…」

「『えー』じゃないっ。お前が鑑永寺に行くたびに、変なことをされてやしないか肝を冷やす私の身になってみろ」

 殿は大地之助のおでこをつついて戒めた。大地之助は肩をすくめて尋ねる。

「もう一つは?」

「それはなぁ…」


 殿は目を細めた。

 笑ってはいるものの目の奥は妖しく光っていて、大地之助は目をぱちくりさせた。