殿の誕生日 5
 鑑永寺は江戸市内から離れた、吉井山の中腹にあった。

 山の道中はほとんど人の行き来がなく、うっそうとしたけもの道が続いている。

 日の光が届かない場所も多く大地之助は少し怖かったが、殿への贈り物のためだと歩を進めた。


「着いたよ」

 林を抜けると平地があり、そこにぽつんと一軒の小さな寺があった。

 先ほど通ってきたけもの道とはさすがに違って多少整備はされていたが、それでもここに人が住んでいるのが疑われるほどさびれた場所だった。


 寺を囲むように建てられた塀は、土がぼろぼろと崩れ落ち、囲いをしている意味がほとんどない。

 門らしきものを越えた広場には雑草が荒れ狂うように生えている。

 その向こう側には『鑑永寺』と書かれた木の札のある小さな寺が建っている。

 入口の木戸や壁は塀同様に、崩れいていたり裂けていたり割れていたり…そのうえ穴ぼこだらけだった。

 こんな表現は悪いと思ったが、『あばら家』と呼ぶのがぴったりだと思った。


「鑑さん、私だ、万次郎だ。入るぞ」

 そう一声かけて、万次郎は寺の中へずいっと入った。

「ほら、大地之助殿もおいで」

 誘われるままについていったものの、大地之助は中の様子を見て絶句した。

 寺の内部は外観よりもより一層すさまじかった。

 乱雑に置かれているなんだか分からない品にはすべてほこりがうず高く積もっており、玄関先だけでも床にはいくつもの穴が開いていた。

 上は上で、天井には蜘蛛の巣がはり巡らされている。

 灯り取りの窓も閉ざされていて、中はかなり暗かった。

 その時、大地之助の視界の隅に何かが小さく横切ったような気がした。

 チューチューという鳴き声とせわしなく聞こえる軽い足音からすると、ネズミに違いなかった。


「……」

 ここに住む鑑導という男は一体どういう人間なのだろう。

 先ほど聞いた万次郎の説明に加え、今、目の前にある光景。

 実はとんでもない男に頼みごとをしに来たのではないだろうか。大地之助はここへきて急に不安になった。


 万次郎は隣の大地之助が少しビビッていることに気づいていたが、そのまま共に玄関を上がり、奥へと連れていく。

 廊下はギイィ…ギイィ…と嫌な音を立てて軋み、大地之助の気持ちをさらに心細いものにした。


「鑑さん」

 一歩前を歩く万次郎が、一番奥にある部屋に向かって声をかけた。

 襖は開かれているが中は見えなかった。いよいよ鑑導と対面する時が来たと、大地之助は緊張で唾を大きく飲み込んだ。


 小さな窓から数か所、日の光が入るその部屋に入ると、中央に真っ黒い袈裟を着た丸坊主の男が背を向けて座っていた。


「お前のわらじはそこに置いてある。…それより、誰を連れてきた」

 こちらを振り返らず、そのままの姿勢で鑑導は尋ねた。その声はとても低く、それゆえとても迫力があった。

「…見なくても分かるのか。さすが鑑さんだな」

「お前が一人じゃねぇことぐらい、足音ですぐ分からぁ。どうやらまだまだガキみてぇだが…万次郎、そいつぁ誰だ」

 相変わらずこちらを見ない鑑導は、そう言って上を仰いだ。

 右手にはお椀を持っており、それに口をつけている。どうやら昼間から酒を飲んでいたらしい。


「鑑さん、実は…今日連れてきたのは、徳代家の殿様のお小姓である大地之助殿だ」

「小姓ォ!?」

 鑑導は万次郎の答えを聞いて初めて、こちらを振り返った。


 大地之助は息を呑んだ。

 燃えるように茂った太い眉毛の下に、ギョロリと不気味に光る大きな目。

 顔全体はゴツゴツと骨ばっており、異様な迫力を醸し出している。

 それに見合うように体格はがっしりと大柄で、袈裟を着ていてもその下の身体は筋骨隆々としているのが容易に想像できた。

 まるで熊のような男だと、大地之助は思った。


 鑑導は黙ったまま、大きな瞳で大地之助を凝視している。

 万次郎は焦って言った。

「おい、殿が大切にされているお小姓だぞ。きちんと挨拶しろ、鑑さん」

「…殿サンの大切なお小姓ちゃんが、こ〜んなさびれた寺に一体何の用だ」

 『あいさつしろ』と言う万次郎の言葉など一切耳に入っていないかのように、鑑導は小バカにした様子で新たにお椀に酒をどぷどぷと注いだ。


「っ…大地之助殿すまない。鑑さんはいいヤツなんだが、ちょっとその…礼儀知らずで」

 自分を気遣う万次郎に、大地之助は首を横に振って答える。

 が、明らかに疎ましそうな様子の鑑導を見て、不安な気持ちがますます募っていった。

 万次郎はヒヤヒヤしながら、ここへ大地之助を連れてきた経緯を説明した。

「鑑さんに頼みがある。この大地之助殿に、わらじづくりを教えてあげてほしい」

「ああ!?」

 鑑導の太い眉毛が吊り上がる。その大きな声に、大地之助はさらに身を縮こませた。


 万次郎は乗り気でない鑑導を説得する。

「もうすぐ殿のお誕生日がある。大地之助殿は心から愛する殿のために、この世に一つしかないものを差し上げたいと、とても悩んでいたのだ。そんな中

鑑さんのわらじの話になって、是非とも鑑さんに直接教えてもらって自分の手で作りたいと…」


「いい迷惑だな」

 再びお椀の酒をグイッと一気に仰ぎ飲んで、鑑導は言った。

「殿サンは何でも手に入れて、何不自由ない暮らしをしてるだろうに。今さらこんなわらじもらっても…第一そんなの、こいつ自身に熨斗つけて

『どうぞ僕を一晩中お好きなようにしてください』なんて甘えた声ですりよりゃあ一発で解決じゃねーか。なんでオレがこのガキの自己満足につき合わなきゃ

ならんっ!」

 大地之助はムッとしたものの、鑑導の言ったことがまさに見られていたかのようにその通りだったので、恥ずかしくて真っ赤になった。

 万次郎も大地之助から聞いた話そのものをズバリ言い当てる鑑導に辟易しながら、説得を続ける。


「…大地之助殿はやっとよいものが差し上げられると喜んでだなぁ」

「お断りだ」

「まぁそう言わずに…」

 万次郎は大地之助の手前、簡単に引き下がるものかとしつこく鑑導に頼みこむ。

 大地之助は自分のことが原因で友情にヒビが入ってはダメだと、鑑導の迫力に怖れおののきながらも勇気を出してお願いした。


「鑑導さん、僕、鑑導さん直伝の素敵なわらじを作って、殿に差し上げたいんです。お願いです。僕にわらじづくりを教えてください…!」

 頭を下げる大地之助を、鑑導は何も言わずじっと見つめていた。

 そのままの状態でしばらくシンとした時が流れた。万次郎はたまりかねて口を開く。

「鑑さん、大地之助殿がこれだけお願いしてるんだ。どうかここは私の顔を立てて…」


「おい小僧」

 大地之助はそう言われて急いで面を上げた。

「こ…小僧って、仮にも殿がご寵愛されている大地之助殿に向かって…無礼にもほどがあるぞ鑑さんっ!」

 万次郎が叱責するも、鑑導はそれをまるっきり無視して大地之助をじっと見つめる。


「……?」

 射抜くような鋭い目。大地之助は戸惑った。

 すると、やっと視線を小さく下に移して、鑑導は口を開いた。

「お前が大事そうに抱えているのは…そりゃなんだ」

「あ、これは…」

 大地之助は先ほど城下町で買ってきた腕の中の雅盛に視線を送り、おずおずと答えた。

「伝五郎さんっていうお酒づくりの名人が造った、町で評判のお酒です」

「ほぉ〜お、伝五郎か…そりゃオレも聞いたことがあるな」

 手土産に興味を示し始めた鑑導に、万次郎はここぞとばかりに興奮気味に売り込んだ。


「私たちは何もタダで頼みごとをしに来たわけではない。鑑さんが酒好きだと話したら、大地之助殿は城下町で人気のある酒を聞き込みして、是非これを

鑑さんにと、自ら手土産にしたのだぞっ」

「ふふん…」

 鑑導は軽く笑って、その時初めて立ち上がった。そして大地之助たちに近づいてくる。

 傍に来られると、座っていた時よりも数倍大きく感じ、圧倒された。

「ガキのくせに気が利くじゃねぇか。ええ?小僧」

 ニヤニヤと笑いながら自分を見下ろす鑑導。

 手土産を気に入ってくれたことは一安心だったが、大地之助はなんだか嫌な気持ちになった。


「じゃあ、大地之助殿にわらじづくりを教えてくれるんだな?」

「ん〜…おい、大地之助とやら。その酒、オレのために持ってきたんだろ?ならもったいぶってねぇで早く寄こせ」

 万次郎にはっきりとした返事をせず酒を催促する鑑導に、大地之助は怖る怖る雅盛を差し出した。


 グイッとすごい勢いで酒を奪い去る強引さに、少しだがはっきりとした恐怖心が芽生えた。

 鑑導は酒瓶を包んでいた風呂敷をはぎ取って、ニヤニヤしながら『雅盛』と書かれた貼り札を見つめている。

「鑑さん、大地之助殿の頼み、聞いてくれるな?」

 万次郎が詰め寄ったその時、遠くから鐘の音が聞こえてきた。

「昼八つか…おい万次郎、お前もうそろそろ城へ戻らないといけないんじゃないか?」

「あっ…!」

 鑑導にそう言われて、万次郎は声を上げた。

「そうだ、もう交代の時間だ…鑑さん、大地之助殿にわらじづくりを…」

「ハイハイ」

 慌てる万次郎に、鑑導は軽く返事をした。


「……!!」

 やっと鑑導がわらじづくりを教えてくれることを了承した。

 大地之助はやっと笑顔を浮かべた。

「鑑導さん、ありがとうございますっ!!」

 礼を言う大地之助を気に留める様子もなく、鑑導は踵を返して部屋の中央へ戻る。

「ありがとう、恩に着るよ鑑さん」

 万次郎の礼にも鑑導は返事をせず、元いた場所にあぐらをかいてどっかと座り込んだ。


「鑑さん、大地之助殿はわらじを作ったことがない。それに殿のお誕生日まであと十日と時間が迫っている。今日から教えてくれぬか?」

 いきなりやって来て、自分はずいぶん図々しいお願い事をしているなぁと大地之助は思いながら、鑑導の返事を待った。

「んー…おい万次郎、早く城へ戻らないと、新米のくせに遅刻しやがってなんて言われて大目玉食らうぜ?」

 またもやはっきり答えない鑑導だったが、それを聞いて万次郎は大焦りだった。

「あぁっヤバい、本当だ!今日の交代はやたらと口うるさい先輩なんだ、早く帰らないと!!」

 あたふたしている万次郎に、大地之助は言った。

「僕、一人で帰れるから、万次郎さん先に帰って?警備の人たちには僕のお付きで戻るのが遅れたって言えばいいよ。僕もちゃんと後で伝えておくから」

「かたじけないっ」

 大地之助がそう言うのを、鑑導は相変わらず酒瓶の貼り札を見つめながら聞いていた。

 そして二人に気づかれることなく、ニタリと笑った。