殿の誕生日 6
「では私は戻る。大地之助殿、気をつけて帰るんだよ」

 万次郎は大地之助にそう言って、続けて鑑導に言い聞かせた。

「鑑さん、大地之助殿を頼むな。悪いが帰りは山のふもとまで送ってくれ。くれぐれも無礼な真似はするんじゃないぞ、いいなっ!?」

「ヘーイ。あ、わらじ忘れんじゃねーぞ」

 分かっているのかいないのか、気の抜けた返事をして、鑑導は片手を上げた。

「ではっ」

 万次郎はそう言うと、すごい勢いで城へと戻っていった。


「……」

 鑑導と2人きりになって、大地之助はどうしてよいか分からなかった。

 来た時と同様、部屋の入口に突っ立っていた。


「…おい、ガキ」

 突然大きな声で呼びかけられ、大地之助は驚いてビクリと身を震わせた。

「そんなとこに突っ立ってないで、部屋に入ってきたらどうだ」

「…はい…」

 遠慮がちに鑑導の元に近づく。廊下と同様、穴ぼこだらけの床板がギィギィと嫌な音を立てていた。

「座れ」

 近くに来た大地之助に、鑑導は命じた。


(この人…教えてくれるのはありがたいけど、この怖さ…どうにかなんないかな)

 心の中で鑑導の威圧感に困惑していると、先ほど渡した酒瓶を差し戻してこられた。

「おい、酌をしろ。気が利かねーなぁお前は。それで殿サンの小姓が務まんのかねぇ」

 雅盛を受け取りながら、大地之助は思う。

(あー口も悪い…こんなんでわらじづくりを教えてもらう間、身体持つかな?)


 差し出された汁椀に雅盛を注ぐ。鑑導はそんな大地之助をじっと見つめていた。

「どうぞ」

 酒を注ぎ終わった大地之助が何気なく鑑導を見ると、こちらを見ていたので驚いた。

 大男は大地之助と目が合っても逸らそうとせず、見つめたまま雅盛をグイッと仰ぎ飲んだ。


(もう、何なんだよっ)

 不安がる大地之助に対して、鑑導は空になった汁椀を見て声を上げた。

「…っかー、うめぇ!!さすが雅盛だ、イイもんもらったぜ」

 酒を気に入ってもらえた。しかも父親が大好きだった酒。それを褒められると、やはり大地之助は嬉しかった。

「ひひ、普段呑んでる安酒とは雲泥の差だぜ。タダで呑めるなんてなー、もうけもうけ♪」

 鑑導が喜んでいるのを見て、自然に顔をほころばせて笑う大地之助。

「……」

 それに気づいて、鑑導はおもむろに汁椀を床に置いた。


「うまい酒の後は…やっぱ色だよな」

「?」

 鑑導が呟いた言葉の意味を大地之助は理解できず、不思議そうな顔をした。

 それを見て何が可笑しいのか、鑑導はひひ…といやらしく笑い、酒で光る口元をぺろりと舌で舐めた。

 そして突然、大地之助の背中に太い腕を回し、肩をグイッと抱き寄せた。


「っ!!!」

 ハッとして動けない大地之助の耳元で、鑑導が囁く。

「おいお前…まさかこんな酒一つで、オレに頼みごとをしようなんて思っちゃいねぇだろうなぁ」

「!!」

「お前がわらじを作るまで面倒みる報酬が酒一本なんて、釣り合わないと思わないか?おら、お前もそのつもりでここに一人残ったんだろうが」


「……!!」

 鑑導は驚いて身を固くする大地之助に構わず、突然抱き寄せられて崩れた脚元を利用して、着物の裾から不躾に毛深く太い腕を差し入れた。

「ゃっ…!」

 身をくねらせて抵抗する大地之助の顔に自身の顔をグイと近づけて、間近で怖ろしげに微笑んだ。

「おぉ、すっべすべで旨そうな脚してんじゃねぇか。この頃コッチの方はとんとご無沙汰でよ。たまんねぇな、興奮してきたぜ」

「…っ…!」

 逃れようと大地之助は無我夢中で暴れた。だが鑑導の巨体に背面からすっぽりと包まれており、子どもの力ではなす術がなかった。


「なんだよ、もったいぶりやがって。毎日殿サンを悦ばせてるお前の得意なのは何だ、手技か口技か?それとも後ろの具合がとびきりイイのかね?」

 鑑導はなんなく大地之助を押し倒す。

 蹴り出された細い脚が雅盛にぶつかり、その衝撃で床に転がった。


「おぉっと」

 酒がこぼれないか心配した鑑導だったが、ちゃんと蓋がされていたため無事だった。

 ホッとして大地之助に視線を戻した時、鑑導はドキリとした。


 大地之助は、顔色が真っ青になっていた。

 大きく見開いた目には涙がたまり、震える口唇は何かを言おうとしているのだろうか、声が出ないようでただパクパクと開閉を繰り返している。


「〜〜〜…!」

 大地之助の脳裏に、鮮明に蘇る苦い記憶。

 組み伏せられたことで、無理矢理男どもの欲望の餌食になったことをまざまざと思い出し、全身が硬直する。

 どうにか逃れようと思っても、身体が思うように動かない。

(イヤだ、イヤだ…!!)

 圧倒的な力を持つ巨大な恐怖心に襲われて、大地之助は涙を流すことしかできないでいた。


「……?」

 鑑導は大地之助の様子がおかしいことに気づいた。

 顔からは血の気が引いており、呼吸もまともにできていない。明らかにおびえ方がただごとではなかった。


「おい、大丈夫か…?」

 心配になった鑑導が大地之助の上から退こうとした瞬間、腹を思い切り蹴り上げられた。

「ぐえっっ!」

 まるっきり油断していたため鳩尾に綺麗にひざを入れられた。鑑導は呻きながら床に転がった。

「このガキ、何し…!」

 そう言って自分に一撃をくれた子どもを見ると、そのままの状態で床に寝ていた。

「…?」

 立てられた片ひざが乱れた着物の裾から覗いている。
 
 荒くなった呼吸のために肩が上下しており、拳は固く握りしめられていた。


「…チビのくせにやってくれんじゃねぇか」

 蹴られた腹に手を当て、ゲホ、と少し咳こみながら、鑑導はそう言って様子のおかしい大地之助が気になり、のそのそと近づいていった。

 辿りついて顔を覗き込むと、視線はどんよりと虚ろで光がなく、口元は弱々しく小さく震えていた。


「ちょ、ホントにお前…」

 鑑導が小さな肩に手をかけようとしたその時、大地之助は何かを決意するように目と口をぎゅっと閉じた。

 そして、勢いよく立ちあがったかと思うと、歯を食いしばったまま床に転がっている雅盛の瓶を手に取った。


「ふざけるなっ!!」

 床に座ったまま自分を見上げる鑑導に向かって、大地之助は大きな声で一喝した。

「へ…」

 大地之助の変わりように、鑑導は目を見張った。

 この少年は、屈辱を受けて誇りを傷つけられ、全身からすさまじい怒りを放っていた。


 大地之助は大きな瞳で鑑導を睨みつけた。

「殿への贈り物のために僕はここへ来たんだ…殿のために…なのになんであんたとわざわざそんなことして教えてもらわなきゃならないんだよ、バカにするな!!」

 そう言うと、あまりのくやしさにあふれる涙を乱暴に袖で拭った。


「なんだよ、ちょっとからかっただけじゃねぇか、ムキになんなよぉ冗談だよ冗談っ!」

 鑑導はそう言って怒れるお小姓をなだめるも、それは逆に大地之助の神経を逆なでするだけだった。

「そんな冗談、笑えないっ!!」

 そして雅盛を頭上に高々と振りかざした。


 まさか。もしや。よもや。


「わー!ちょっとタンマ!!」

 鑑導は慌てて両手を前にして制止した。

 このままこいつはオレの頭にこれを振り下ろす気か。そうなれば死者を弔う立場の自分が、あっという間にお陀仏になってしまう。

「わ…分かった、オレが悪かった、冗談でもあんなことしねぇから、とりあえずそれ下に下ろせ、な?」

 下手に出て鑑導は必死に訴えた。

 そう言われて大地之助はハッと我に返り、酒瓶を下げた。

 あまりの憤りに頭に血が上って、無意識にそんなことをしていたらしい。


 鑑導はホッとしつつ、小声で言った。

「か、顔に似合わず過激なことやるじゃねぇか…」

 やや落ち着きを取り戻して赤面している大地之助を見て、鑑導は安心したせいか調子に乗った。

「ちょっとぐらい触らせてくれたっていいのに…ケチだなお前」


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」

 その言葉が再び大地之助の逆鱗に触れる。

 雅盛はまだ腕の中にあった。すぐさま頭の上に高々と持ち上げた。


 本格的に危機を感じた鑑導は、尻もちをついたまま後ずさった。

「だーかーらー!今のも冗談だって!」

「笑えないって言ってるだろー!」

 大地之助はもう半狂乱で鑑導に迫る。


「大地之助、それは危ないっ!危ないからやめよう、酒ももったいないし…なっ、なっっ!?」

「分かってるよ!こぼさないよう細心の注意を払って…思いっきり殴ってやる!!」

 冷静になれない大地之助の背中がしなった。反動をつけてより強い力で鑑導に振り下ろそうとしている。

 鑑導は思わず叫んだ。

「悪かった、悪かった大地之助っっ!!お前の言うこと何でも聞くから…あっ、わらじづくり教えてやるから、落ち着け!」


「え…」

 今の鑑導の言葉を聞いて、大地之助がピタリと止まった。

「あ…」

 鈍器で頭を殴られる恐怖から思わず口を滑らせてしまい、鑑導は口元を手で押さえている。


 大地之助はゆっくりと雅盛を下に下ろしながら、驚きつつも大きな瞳を輝かせて尋ねた。

「今、わらじづくり教えてやるって言ったよね?」

「え…あ?そんなこと言ったっけな…?」

「言ったよ!言った!!」

 わらじづくりを教えてくれると鑑導の口からはっきり言われて、大地之助は心底喜んでいた。

 笑顔で鑑導に迫る。

「鑑導さん自身が言ったんだよ。男に二言はないよね!教えてもらえるんだね僕!!」

 自分からこうなる事態を招いた鑑導が可笑しくて、大地之助は含み笑いをしながら問いかけている。


 鑑導は観念した。

「ぅ…あぁ…分かった、教える、教えますよ…」

「ぃやったぁ!!」

 大地之助はキャッキャと飛び跳ねて大喜びだ。

 鑑導は力なく笑うしかなかった。


「あっ!!」

 急に大地之助が大きな声を出すので、鑑導は心臓がひっくり返りそうだった。

 もう完全にこの子どもに振り回されているのを自覚する。

「なっ…なんだよ」

「もう二度と、さっきみたいなことしない?」

 大地之助の厳しくて恨みがましげな視線。

 それが身を刺すように痛くて、大人しく従うしかなかった。


「…ハイ…」

 それを聞いて、『勝った』とばかりににんまり微笑む大地之助。

 先ほどから自分が押され気味の情けなさも手伝って、聞こえないように小さくぼやいた。

「ちぇ…お触り一切なしで教えんのかよ、割に合わねぇな〜…」

「何っ!?」

 鑑導が何やら不服そうなことに気づいて、大地之助は咎めるように鋭く聞き返す。

「いいえ、何でもないです…」

 ついに立場が逆転してしまった。

 大男が身を縮めて小さくなっているのが可笑しい。大地之助は吹き出した。

「ぷ〜っ…!」


 さっきまで泣いていたカラスがもう笑った。

 鑑導は厄介事をしょい込むのが嫌で、嫌な目にあわせて驚かせておけば尻尾を巻いて逃げ帰るだろう、という考えがあったため、ああいうことをした。

 そりゃあわよくば大地之助を…という思いがないこともなかったが、本気で犯してしまおうという気はなかった。


 自分に押し倒された時の大地之助の様子は、明らかに尋常ではなかった。

(もしかして、こいつ過去に…)

 鑑導の勘が当たっているのであれば、本当に悪いことをしたと思う。

 でもそれを口にするのは再び大地之助を傷つけてしまうので、何も言わなかった。

 今こうやって笑顔を見ると、元に戻ってくれて心底ホッとした。

 それがあまりに楽しそうなので、鑑導はつられてガハハと笑った。


「おい、殿サンの脚の寸法、ちゃんと測ってきたんだろうな?」

「任せてよ!」

 2人はさっそくわらじづくりに取り掛かった。