殿の誕生日 9
 その日の夜。


 やはり今夜も、大地之助は昼寝の時間を削っていたせいで、またウトウトとしていた。

 共に殿の帰りを待つ中条と五代は、殿には悪いと思いつつ、内心ウハウハでその様子を見守っていた。

 江田たちの説明通り、舟を漕ぎだす大地之助はこれまた可愛らしく、二人揃って胸がキュンキュンしていた。


「大地之助殿、眠いのであろう?ささ、どうぞ遠慮なく、私の胸をばお使いなされっ」

 迎え入れる準備万端と中条が両腕を広げると、大地之助は眠気に襲われて重くなったまぶたを必死でこすって抗った。

「何言ってんの…僕起きてるもん…」

「まぁまぁそう言わずに」

 中条は強引に小さな肩を抱き寄せる。

「ぁ…ん、大丈夫だってばぁ」

 そう言うものの、再びまぶたは閉じかけている。

 その様子がまた格別庇護欲をそそって、中条はニヤニヤと鼻の下を伸ばした。


「ちょ、中条殿っ。ずるいですよっ」

 五代が不満そうに口を挟む。

「大地之助殿がこんなに眠そうなんだぞ。何がずるいのだ、上司にそんな口をきくんじゃない」

 またもや上役の権限を振りかざして、役得を得ようとしている。


 腹心の四人の部下の中で一番下っ端の五代は、家臣長の中条と組まされることが多かった。

 これではせっかくのこの機会も、中条ばかりがいい目を見るのではないかと危機感を抱き、反撃した。


「大地之助殿、そっちじゃなくてこっちへ…」

 中条に寄りかかっている大地之助の手を取り、自分の方へ招き入れようとする。

「こら五代っ、勝手な真似をするな」

「……」

 五代は無視してそのまま大地之助を引き寄せた。


「ん
…」

 大地之助は周りが騒がしくなってきたので目を開いた。

 二人の家臣が引っ張るように自分の手をそれぞれ持っているが、事情が分からない上に眠たすぎて頭が働かず、されるがままだった。


 その時、殿が帰ってきた。

 中条と五代は慌てて大地之助から手を放す。

「殿、おかえりなさぃ…」

 大地之助は迎える言葉を言い終わると同時に、睡魔に負けて眠ってしまった。


「おおっと…!」

 大地之助の身体が畳に倒れ込む前に、殿が駆けつけてその身を支えた。

 昨日と同じく、スヤスヤと腕の中で安息の眠りにつく最愛の小姓。

「……閨の襖を開けてくれ」

 またしても交われないことにがっくりと肩を落としながら、殿は大地之助を抱き上げて寝室へと消えていった。


 中条と五代、また殿についていた江田と田崎も、殿の心中を察してみな何も言えなかった。

 ただし心の中で、一様に呟いた。


(おいわたしや、殿…!)



 鑑永寺、三日目。

 いつものようにわらじづくりに取り掛かっていると、大地之助が鑑導に呼びかけた。


「鑑さんっ」


 鑑導は突然そう呼ばれて、怪訝そうな顔をする。

「な、なんだよ」

「万次郎さんが『鑑さん』ってあだ名で呼ぶの、仲良さそうでなんだかうらやましくてさ。だからこれから僕も『鑑さん』って呼ぼうと思って」


 大地之助は肩をすくませて、へへっと照れくさそうに笑っている。

 自分を『鑑さん』と呼ぶのは万次郎だけだが、いつの間にやらそうなっただけである。

 それをなんだか仲良しの証みたいに言われたのが、無性に気恥かしかった。

 こうして無邪気に自分に懐いてくる大地之助。

 親しくなりたいというその気持ちが内心嬉しいくせに、距離が縮まることが自分にとってなぜかいけないことのような気がして、鑑導はそれを突っぱねた。

「やめろ、お前みたいなガキにそう呼ばれたくねぇ」

「え〜…」

 大地之助は拒否されたことにがっかりして、寂しそうな顔をする。

 だがすぐに気を取り直して言った。

「イヤだ、そう言われても『鑑さん』って呼びたい!呼ぶ!もう決めたんだ!」

「…しつけぇなぁお前、イヤだってんならオレだってヤだよ。呼ばれても返事しねぇからな」


「……」

 大地之助はふと、真顔で鑑導の顔をじっと見つめた。

「な、なんだよ…」

「…うぅん、なんでもない」

 大地之助は冷たく言われたのに、妙に嬉しそうだった。鑑導は思わず呟く。

「変なヤツ…」

 それでも大地之助は含み笑いをしていた。


 そんな少年に少々呆れながら、鑑導はあることをひらめいて提案した。

「あ、あだ名と言やぁよ、お前はおでこがご立派であらせられるから、『デコ之助』って呼んでやるよ。うん、ぴったりだ!」

 ハハハ、と自分の言ったことにウケている意地悪な鑑導に、大地之助はムッとして反撃した。

「なんだよっ。じゃあ僕は『鑑さん』じゃなくて『ハゲさん』って呼ぶ!」

「お前、言ってはいけないことを…!これはハゲじゃない、毎日剃ってんだよデコ之助!」

「あーそうですか、僕はすっかりハゲてるとばかり思ってましたよハゲさん!」

「まだ言うかデコ之助!今の歳でそれなら、お前がオレぐらいになった時にゃそれこそツルッパゲだ!」

「まだ若いから大丈夫だよーだ。そっちがデコ之助って言うなら何回でも言ってやる、ハゲハゲハゲハゲ!」

「とうとう『さん』まで取りやがったな―――――――――!!」


 妙な言い合いになって、二人は息を荒げた。

 鑑導は恨めしげな目で大地之助を正面から見据えた。

「ぅお前ェ…」

 ちょっと言いすぎたかも、と大地之助が焦って後ずさると、鑑導が立ちあがった。


「この繊細な年頃の男に禁句言ってくるヤツは…」

 低い声で呟きながら、鑑導はゆっくりと大地之助に詰め寄る。

 だんだん怖ろしくなってきた大地之助は、逃げるために腰を上げた。

 それを正面から見据えて、鑑導は叫んだ。

「懲らしめてやる!!」

 大地之助を捕まえるため、凄みを持たせてぐわっと迫ってくる鑑導の顔は、言葉に反して笑っていた。

 本気で怒っていないことが分かり、大地之助も笑顔で身をひるがえした。


「わ〜〜〜!!」

 笑いを含む楽しそうな悲鳴を上げながら、大地之助は鑑導に背を向けて走り去ろうとする。

「こら待てデコ之助!お仕置きだっ!」

 そう言って鑑導が数歩追いかけたその時、バリン!という大きな音がした。


「え……?」

 大地之助が驚いて振り返ると、鑑導が床にうずくまっている。

 よく見ればその右脚はすっぽりと縁の下にはまり込んでしまっている。どうやら走った衝撃で、床板を踏み外したらしい。


「だ、大丈夫!?」

「…大丈夫だ、くそ〜このボロ寺め…」

 情けない声で返事する鑑導。

 先ほどまでの威勢の良さと、目の前の光景との対比が可笑しくなって、大地之助は吹き出した。

「ぷぅっ…!!」

「…くくっ」

 鑑導も冷静になると自分が滑稽に思えて、一緒に笑った。


「お怪我はありませんか、鑑さん?」

 大地之助は鑑導の右脚を床下から持ち上げながらニンマリ笑う。

「ちっ、負けたよお前には」

 観念してあだ名で呼ぶことを許してくれたのが嬉しくて、大地之助は満足そうに微笑んだ。


 鑑導はわらじづくりを教える羽目になったことも含めて、なんだかんだで大地之助の言うことを聞いてしまう自分が可笑しくて、口元をゆるめた。

「ハハッ!」

「…アハハ!」

 大地之助もつられて笑う。

 大きな穴の開いた床で、二人は声を上げて大笑いした。